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石井一久物語  作者: 水前寺鯉太郎
1年生編

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怪物、ついに快音を響かせる

 八回表、鳳凰大附属の攻撃。二死二塁。

 アイビースタジアムの空に、逆転の機を待つ熱気が重く垂れ込める。二点差を追う絶体絶命の窮地。次打者席から打席へと向かうのは、九番、ピッチャー、石井一久。

「……一久、いいか。奇跡なんて言葉は信じるな。お前のその『不純な邪念』だけを信じて、バットを振り抜け!」

 河西が、もはや神頼みに近い形相で一久を送り出す。だが、一久の瞳は、燃え盛るアルコールランプのような、不気味に澄んだ輝きを放っていた。

「キャプテン。僕、さっき計算したんです。ここで打てば、木佐さんがまた僕の名前を呼んでくれる。今度はきっと、『反撃の狼煙を上げたのはこの男!』っていう、叙事詩みたいな枕詞付きですよ」

「動機が最低すぎて涙が出るぜ! 行け! その初恋で日南の門をぶち破ってこい!」

 マウンドには、日南学園が誇る絶対的エース・寺原。

 さっき被弾して放心していたはずの「名前だけの男」が、なぜか獲物を値踏みするような三白眼で打席に立っている。寺原の背筋に、冷たい汗が伝った。

(……なんだ、このプレッシャーは。構えは素人、バットの持ち方もデタラメだ。なのに、なぜ俺の指先がこれほどまでに震える――!)

 初球。一四六キロ、渾身のインハイ。

 一久は、バットを「振り回す」のではなく、空間ごと叩き壊すような豪快なスイングを見せた。

 空振り。勢い余って一回転し、無様に土を舐めかける。スタンドからは嘲笑と溜息が漏れるが、放送席の木佐綾子だけは、マイクを握る指を白く変色させていた。

(……違う。今のスイング、当てることなんて微塵も考えていない。『運命をへし折る』ための音だった――)

 二球目。寺原は逃げのフォークを選択した。

 一久の視界で、白球が急激に、かつ鋭く沈む。県内の強打者を悉く葬ってきた「消える魔球」。

 だが、一久の脳内では、自分のナックルの、あの「物理法則を無視したデタラメな軌道」がリフレインしていた。

(……僕の球に比べたら、この落ち方はすごく素直だ。予習通りの、お行儀がいいボールですね、寺原さん)

 腰が引けたような、異様なフォーム。そこから一久は、バットを「置いてくる」ように突き出した。

 パキィィィィンッ!

 乾いた硬質な音が、日南のプライドを粉砕した。

 打球は一塁手の頭上をライナーで射貫き、ライト前へ。

 石井一久、人生初の安打。それは、名門の心臓を抉る致命的な一撃となった。

「……走れ! 一久、バニラアイスの店まで走れぇぇぇ!」

 河西の絶叫を背に、一久は一塁ベースを駆け抜けた。

 スタジアムが、熱狂の渦に飲み込まれる。放送席から、震えを押し殺した、しかし天界の鈴のような透明な声が響き渡った。

『打った! 九番、石井くん! エース寺原くんの宝刀を完璧に捉えた、執念のタイムリーヒット! 鳳凰大附属、ついに一点差! 試合の行方は、全く分からなくなりました!』

 一塁ベース上。一久は静かに、そして誰よりも美しくヘルメットを脱ぎ、放送席へ向かって深く頭を下げた。

(……聴こえました、木佐さん。僕、今、少しは『本物』に見えましたか?)

 ベンチの端。稲尾和久が、いつの間にか立ち上がっていた。

「……一久くん。君、自分が何を壊したか分かってる? あのフォーク、プロのスカウトでも感嘆するレベルだったよ。それを『お行儀がいい』で片付けるなんて――」

 稲尾はそう呟くと、レジ袋から「金メダルチョコ」を取り出し、愛おしそうに見つめた。

 鳳凰大附属、一点差。二死一、三塁。

 マウンドの偽物が、ついに王者の城壁に旗を立てた。

 逆転のシナリオは、すでに一人の少女の声によって、黄金色に書き換えられていた。

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