一瞬の静寂
九回裏、二死。
アイビースタジアムの熱狂は、もはや飽和状態を超え、静寂に似た戦慄へと変わっていた。
鳳凰大附属、三対二。
絶体絶命の九回表、キャプテン河西が執念で放ったセンター前ヒットが、プレハブ校舎の意地を名門の喉元に突き立てた。
一点リードの最終回。マウンドに立つ一久は、一度だけ深く、肺の奥まで熱い空気を吸い込んだ。
『九回裏、日南学園の攻撃。ピッチャー、石井くん』
放送席、木佐綾子の声。それは、事務的なアナウンスの枠を飛び越え、祈るような、震えるような響きを持って、一久の背中に翼を与えた。
(……聴こえました。木佐さん。今、僕の名前、世界で一番優しく響きましたよ)
スタミナはとっくに底をついている。指先は痺れ、視界は夕闇と汗で滲んでいた。
だが、一久はセットポジションに入り、あの「失敗」の感覚を指先に呼び戻した。
――真っ直ぐを、真っ直ぐ投げない。
さっきホームランを打たれた、あの忌まわしい「スッポ抜け」の記憶。それを、自分の意志で、あえて再現する。
振り下ろした左腕。
放たれたのは、一見すればただの、球速も勢いもない直球だった。
だが、日南の主砲がバットを始動させたその刹那。白球は意思を持つ生き物のように、内角へ向かってグニャリと鋭く食い込んだ。物理法則が、一久の初恋に屈して跪いた瞬間だった。
バキィッ。
芯を外された鈍い音が、終幕の合図となった。
力なくマウンド正面へ転がる打球。一久はそれを、壊れ物を扱うようにグローブで収め、一塁へ優しく、確実に送った。
「アウト! 試合終了!」
鳳凰大附属、絶対王者・日南学園を撃破。
マウンドで天を仰いだ一久の目に映ったのは、燃えるような夕焼けと、窓から身を乗り出して自分を見つめる、木佐綾子の姿だった。
彼女の瞳に宿っていたのは、驚きを通り越した、呆れ。そして、それ以上に温かい「何か」の光。
「……一久くん。君、自分がどんな扉を開けたか、まだ分かってないね」
ベンチ裏、稲尾和久が音もなく現れた。
「ムービングファスト。失敗を魔球に書き換えた。……だが、そんな技術論、今の君にはノイズでしかないな」
稲尾はレジ袋から、金色の紙に包まれた「超高級(自称)」お祝いケーキの箱を差し出した。
「食べなさい。地獄を生き残った者への、神様からの配給だ。……それと、ほら。歴史の証人が、君に直接言いたいことがあるそうだよ」
振り返ると、そこには息を切らし、頬を朱に染めた木佐綾子が立っていた。
ヘッドセットを外し、マイクを通さない彼女の「本物の声」が、夕暮れの廊下に響く。
「……石井、くん」
一久は、口の中に生クリームを放り込んだまま、彫像のように固まった。
目の前には、夢にまで見た女神の笑顔。だが、今の自分は泥まみれで、しかも口の周りには真っ白なクリーム。
「……はひ。いひい、でふ。……いひい・かふひさ、でふ」
そのあまりに情けない返答に、木佐綾子は一瞬目を丸くし、それから――この三日間で一番大きな、鈴を転がしたような声で笑い出した。
鳳凰大附属、快進撃。
石井一久という「偽物の死神」の物語に、初めて本物の「ヒロイン」という光が差し込んだ。
一久はクリームを飲み込み、初めてマウンドに立った時の何倍もの緊張で、彼女の目を見つめ返した。
春の甲子園への道は、まだ始まったばかりだ。
だが一久は、左腕に残る「新魔球」の熱と、胸に広がる「ケーキの甘さ」を感じながら、確かに自覚した。
この名前と、この左腕があれば――世界はもっと、面白く騙せるはずだ。
「……次は、完投して、完璧な敬語でインタビューを受けます」
「……まずその顔を拭け!」
河西の怒鳴り声が、祝福の鐘のように、夏の宮崎の空に響き渡った。




