表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
石井一久物語  作者: 水前寺鯉太郎
1年生編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/48

名前の男、正式に野球部員になる

 最後の一球を放り投げ、サードゴロで試合が終わった瞬間。

 球場を揺らす歓声も、河西の絶叫も、一久の耳には届かなかった。

(……やっと、座れる)

 膝から力が抜け、マウンドの土に尻餅をついた。視界が白く明滅する。スタミナはとっくにマイナスを振り切り、左腕はもはや自分の意志を離れた、焼け付く鉄の棒のように感じられた。

 ふと見ると、捕手の河西がホームベース付近で膝をついていた。ヘルメットを投げ出し、両手で顔を覆って、肩を激しく揺らしている。

「キャプテン、大丈夫ですか。熱中症なら、マウンドまで冷たい水を持ってきてください。僕が一歩も動けないのは見ての通りです」

 声を絞り出すと、河西は顔を上げた。その目は血走るほどに赤く、鼻をすすりながら、しかし最高に獰猛な笑みを浮かべて言った。

「……勘違いするなよ、一久。全部、その名前のおかげだ。相手が勝手にビビって、勝手に自滅しただけだ」

「知っています。僕、今日一日で自分の名前がさらに好きになりましたよ」

「……でもな」河西は立ち上がり、泥だらけの手を一久に差し出した。

「その名前を背負って、最後までマウンドを降りなかったのは、紛れもなくお前だ。……ありがとな、一久。俺の、俺たちの野球を、繋いでくれて」

 一久は少し首をかしげた。感謝される筋合いはない。ただ、逃げ出す気力さえ残っていなかっただけだ。だが、河西の泥まみれの笑顔は、この三日間で見たどの景色よりも、残酷なまでに眩しかった。

 翌日。放課後の教室に、河西が一枚の紙を叩きつけた。

「入部届だ。一秒以内に書け。書かないなら、今すぐグラウンドで百周だ」

「……試合、終わりましたよね。僕はまた、静かな幽霊部員に戻る予定だったのですが」

「バカ言え。地獄の本番はこれからだ。春の地区予選、お前のあの魔球で、全国のバカどもを恐怖のどん底に叩き落としてやるんだよ」

 一久はペンを受け取り、真っ白な用紙を見つめた。学年、氏名。そして、運命のポジション欄。

 数秒の沈黙の後。

 彼は迷わず、太い筆致で「投手」と書き込んだ。

 三日前まで、自分がピッチャーを名乗るなど、神様への不敬罪だと思っていた。だが今、その二文字は驚くほどしっくりと、彼の名前に寄り添っていた。

 部室で着替えていると、ドアが控えめにノックされた。

 現れたのは、制服を完璧に着こなした稲尾和久だ。

「昨日の試合、見ていたよ。一久くん」

「稲尾さん。差し入れのレモン、酸っぱすぎて脳が溶けるかと思いました」

「あれくらいが丁度いい。……ナックル、三日前より『魂が抜けていて』最高に醜悪だったよ。褒め言葉だ」

 稲尾はそう言って部室に入りかけ、不自然に足を止めた。彼の視線が、壁の「石井一久」のポスターと、部室に染み付いた泥と汗の匂いに、一瞬だけ鋭く反応する。

 それは、戦場を去った英雄が、かつての火薬の匂いを思い出した時の目だった。

「稲尾さんは、投げないんですか。鉄腕の、その名前で」

「僕は、もういいんだ。……通り道に、君みたいな最高に不気味な偽物がいた。それを見ただけで、僕の物語は少しだけ救われた気がするよ」

 稲尾はそれ以上語らず、静かにドアを閉めた。彼もまた、名前に囚われた日々から、一久という光を見て解放されたのかもしれない。

 一人残された部室で、一久は壁のポスターを見上げた。

 剛腕、石井一久。そして、机の上の入部届。

 次の相手は、昨日とは比較にならない強豪になるだろう。スタミナは相変わらずゴミ同然で、打撃に至ってはハンバーグの夢を見る始末だ。

 だが、一久は左腕を軽く回してみた。

 筋肉痛の向こう側で、わずかに、しかし消えることのない「野球」の熱が、彼の血を巡り始めていた。

 窓の外、宮崎の空には、新しい季節を告げる風が吹き抜けていく。

 石井一久。

 世界で一番不吉で、世界で一番無気力な死神の、本当の物語が、今、幕を開ける。

 一久は鞄から、少し溶けかかったバニラアイスを取り出し、小さく微笑んで、それを口にした。

「……あ、やっぱり高いやつは美味しいな」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ