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石井一久物語  作者: 水前寺鯉太郎
1年生編

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7/48

ボフッという、音がした

 マウンドは、想像以上に孤独な、処刑台の突端だった。

 たった数十センチの土の盛り上がり。だがそこに立つと、ホームベースまでの十八メートルが、永遠に辿り着けない砂漠の蜃気楼のように遠のいて見えた。

 スタンドから押し寄せる「石井……?」「本物のサウスポーかよ」という囁きが、一久の耳元で不吉な祝詞のように鳴り響く。河西がキャッチャーボックスで、地獄の門番のごとき鋭い眼光を放ち、腰を下ろした。

 審判の腕が、断頭台の刃を落とすように振り下ろされる。

「プレイボール!」

 相手の一番打者は、エリートの香りを纏った「野球マシーン」だった。無駄を削ぎ落とした構え、一久の指先を射抜こうとする眼光。彼は一久を「石井一久という名の宿敵」として、全身の神経を尖らせて警戒している。

 河西のサインは直球。一久は、一度だけ大きく、そして優雅に首を振った。

(お断りします。今の僕の腕で直球を投げたら、肩が即座に退職します)

 河西の目が「今、格好つけて首振ったな!?」と血走ったが、一久は虚空を見つめたまま無視した。二度目のサイン、指を奇怪に折り曲げる「死神の指先ナックル」。

 一久は深く頷き、爪を肉に食い込ませた。

 放たれた白球は、意思を奪われた綿毛のように、無重力の中を漂った。

 打者が踏み込む。最速の直球を想定したスイング。だが、バットが空を切る寸前。

 ――ボフッ。

 球が、左へ、いや右へ、重力と慣性に謝罪もせず、この世のことわりから脱走するようにグニャリと歪んだ。

 空気を切り裂く金属音。バットは、さっきまで球があった「残像」を虚しく叩いた。

「ストライク!」

 球場全体が、冷水を浴びせられたように凍りついた。打者が審判を振り返り、次に一久の三白眼を凝視する。その顔には、幽霊を見た子供のような、根源的な「理解不能」の恐怖が張り付いていた。

 二球目。再びナックル。ホームベース直前で、深々とお辞儀をするように「消えた」。

 三球目、河西のサインはスローカーブ。一久が放った山なりの放物線は、公園の親子連れさえ鼻で笑うような、魂の抜けた「クソボール」だった。

 だが、二球のナックルで脳を焼かれた打者にとって、その「止まって見えるほどの遅さ」は、回避不能な死の毒となった。

「……え?」

 打者の体が、見えない糸に引かれるように泳ぐ。バットが力なく空を切った時には、球はすでに河西のミットの中に、のんびりと居座っていた。

「ストライクバッターアウト!」

 二番、三番。結果は無慈悲な反復だった。

 ナックルで三次元の感覚を狂わされ、スローカーブで己のプライドを自壊させる。一久が、一塁への平凡なゴロ――という名の、打者の魂の抜け殻がアウトになるのを見届けた時、三者凡退という名の「惨劇」が完成した。

 河西が震える足取りで、マウンドへ駆け寄ってきた。

「……一久。お前、自分が何をやらかしたか分かってるのか。相手は県ベスト4の常連なんだぞ」

「分かってます。相手の人が、僕が夕食のことを考えている間に、勝手にバットを振って勝手に転んでくれました。……あと、もう全身が痛くて帰りたいです」

「それを『完封』への序曲って言うんだよ! この、世界を騙し抜く詐欺師が!」

 河西はマスクの下で、歓喜に震え、泣き出しそうな、あまりにも酷い顔で笑っていた。

 ふと視線を投げた先。

 スタンドの端で、稲尾和久が膝の文庫本をパタンと閉じた。

 立ち上がることなく、ただ口元を数ミリだけ緩め、「想定内だ」とでも言うように、高く、遠い秋の空を見上げていた。

 一久はマウンドを降りながら、重く、熱を帯びた自分の左手を見つめた。

 まだ一回表が終わっただけだ。

 だがスコアボードに刻まれた「0」という数字が、石井一久という名の「壮大な嘘」を、たった今、血の通った「伝説」へと書き換え始めていた。

 一久の口内には、あのレモンの苦みが、まだ熱く残っていた。

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