ボフッという、音がした
マウンドは、想像以上に孤独な、処刑台の突端だった。
たった数十センチの土の盛り上がり。だがそこに立つと、ホームベースまでの十八メートルが、永遠に辿り着けない砂漠の蜃気楼のように遠のいて見えた。
スタンドから押し寄せる「石井……?」「本物のサウスポーかよ」という囁きが、一久の耳元で不吉な祝詞のように鳴り響く。河西がキャッチャーボックスで、地獄の門番のごとき鋭い眼光を放ち、腰を下ろした。
審判の腕が、断頭台の刃を落とすように振り下ろされる。
「プレイボール!」
相手の一番打者は、エリートの香りを纏った「野球マシーン」だった。無駄を削ぎ落とした構え、一久の指先を射抜こうとする眼光。彼は一久を「石井一久という名の宿敵」として、全身の神経を尖らせて警戒している。
河西のサインは直球。一久は、一度だけ大きく、そして優雅に首を振った。
(お断りします。今の僕の腕で直球を投げたら、肩が即座に退職します)
河西の目が「今、格好つけて首振ったな!?」と血走ったが、一久は虚空を見つめたまま無視した。二度目のサイン、指を奇怪に折り曲げる「死神の指先」。
一久は深く頷き、爪を肉に食い込ませた。
放たれた白球は、意思を奪われた綿毛のように、無重力の中を漂った。
打者が踏み込む。最速の直球を想定したスイング。だが、バットが空を切る寸前。
――ボフッ。
球が、左へ、いや右へ、重力と慣性に謝罪もせず、この世の理から脱走するようにグニャリと歪んだ。
空気を切り裂く金属音。バットは、さっきまで球があった「残像」を虚しく叩いた。
「ストライク!」
球場全体が、冷水を浴びせられたように凍りついた。打者が審判を振り返り、次に一久の三白眼を凝視する。その顔には、幽霊を見た子供のような、根源的な「理解不能」の恐怖が張り付いていた。
二球目。再びナックル。ホームベース直前で、深々とお辞儀をするように「消えた」。
三球目、河西のサインはスローカーブ。一久が放った山なりの放物線は、公園の親子連れさえ鼻で笑うような、魂の抜けた「クソボール」だった。
だが、二球のナックルで脳を焼かれた打者にとって、その「止まって見えるほどの遅さ」は、回避不能な死の毒となった。
「……え?」
打者の体が、見えない糸に引かれるように泳ぐ。バットが力なく空を切った時には、球はすでに河西のミットの中に、のんびりと居座っていた。
「ストライクバッターアウト!」
二番、三番。結果は無慈悲な反復だった。
ナックルで三次元の感覚を狂わされ、スローカーブで己のプライドを自壊させる。一久が、一塁への平凡なゴロ――という名の、打者の魂の抜け殻がアウトになるのを見届けた時、三者凡退という名の「惨劇」が完成した。
河西が震える足取りで、マウンドへ駆け寄ってきた。
「……一久。お前、自分が何をやらかしたか分かってるのか。相手は県ベスト4の常連なんだぞ」
「分かってます。相手の人が、僕が夕食のことを考えている間に、勝手にバットを振って勝手に転んでくれました。……あと、もう全身が痛くて帰りたいです」
「それを『完封』への序曲って言うんだよ! この、世界を騙し抜く詐欺師が!」
河西はマスクの下で、歓喜に震え、泣き出しそうな、あまりにも酷い顔で笑っていた。
ふと視線を投げた先。
スタンドの端で、稲尾和久が膝の文庫本をパタンと閉じた。
立ち上がることなく、ただ口元を数ミリだけ緩め、「想定内だ」とでも言うように、高く、遠い秋の空を見上げていた。
一久はマウンドを降りながら、重く、熱を帯びた自分の左手を見つめた。
まだ一回表が終わっただけだ。
だがスコアボードに刻まれた「0」という数字が、石井一久という名の「壮大な嘘」を、たった今、血の通った「伝説」へと書き換え始めていた。
一久の口内には、あのレモンの苦みが、まだ熱く残っていた。




