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石井一久物語  作者: 水前寺鯉太郎
1年生編

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スコアボードの怪物

 目が覚めた瞬間、一久は天井の染みを数えた。

 昨日より色が濃い。それは結露のせいか、あるいは一久の視界が絶望で濁っているせいか。

 布団から這い出そうとした瞬間、全身の筋肉が断末魔を上げた。昨日の「地獄の突貫工事」が、筋肉痛という名の復讐劇として一久の肉体を凌遅りょうちに処している。

「……痛い。僕の細胞が、一斉に退職願を出している」

 一久は生まれたての小鹿のような足取りで着替え、玄関のドアノブを掴んだ。

(帰ってきたら、冷たいバニラアイスを二個食べよう。高いやつを)

 それは決意ではない。地獄へ向かう者が、最後に抱くちっぽけな、しかし切実な逃避の灯火だった。

 会場の市営球場は、一久が想像していたよりずっと「戦場」だった。

 陽光を浴びて白く光る土、威圧的なバックネット。三日前まで帰宅部のエースを自称していた少年が、足を踏み入れていい聖域ではなかった。

 一久は逃げ場を求めるように、観客席の端へ視線を投げた。

 ――いた。

 稲尾和久は、墓標のように動かず、そこに座っていた。一久と目が合うと、彼は一切笑わず、ただ一度だけ、深く、重く、顎を引いた。

(来るなと言ったのに……でも、いてくれてよかった)

 隣の席の「神様」の沈黙が、一久の肺に、ようやくまともな酸素を呼び戻した。

 両チームが整列し、開会を告げるサイレンが耳をつんざく。

 バックネット裏の古いスコアボード。係員がマグネットのプレートをはめ込む「ガコン」という音が、一久には処刑台のボルトを締める音に聞こえた。

 相手校・桐島の強力なスタメンが並び、いよいよ守備側の投手欄に手が伸びる。

 ガコン。

 その四文字が躍った瞬間、球場全体の空気が、物理的な質量を持って歪んだ。

 石 井 一 久

「……っ!?」

 桐島ベンチから、沸騰したような動揺が溢れ出した。

「嘘だろ……石井一久? 本当に?」

「左投げだ。あんな眠たそうな顔して……いや、あの目は完全に『獲物』を舐めてるぞ!」

 昨日偵察に来た佐々木が、メンバー表を指の中で握りつぶし、一久を凝視している。その鋭い眼光には、一久の「筋肉痛による震え」が、溢れ出す「強者のプレッシャー」として、致命的なまでに誤変換されていた。

「いいぞ一久。名前だけで相手の心臓を二、三発は射抜いたぞ」

 河西が、興奮で血走った目を剥きながら囁く。

「キャプテン……正直な感想、言ってもいいですか」

「なんだ、ついに本物の死神になる覚悟が決まったか?」

「いえ。あのスコアボード、漢字が合っていて良かったです。よく『和久』とか『カツカレー』と間違われるので」

「隣の神様と飯の妄想を混ぜるな! 行け、死刑執行の時間だ!」

 背中を激しく叩かれ、一久はマウンドへと歩き出した。

 一歩ごとに、太ももが悲鳴を上げ、膝が崩れそうになる。だが、そのおぼつかない歩みが、観客には「計算された脱力」に見えていく。

 マウンドの中央。白く光るプレート。

 一久はそこに立ち、一度だけ深く、熱い息を吐き出した。

 石井一久。

 その名は、相手にとっては絶望の淵へと誘う死刑宣告。

 そして自分にとっては、たった今始まった「世界規模の嘘」を貫き通すための、孤独な開戦の合図。

 審判が、右手を天高く突き上げた。

「プレイボール!」

 一久は、左手の中でボールの感触を確かめた。指先の絆創膏の下で、脈動が激しく刻まれている。

(……とりあえず、あそこまで届ければ、アイスが食べられる)

 天然の左腕が、宇宙の摂理を無視した緩やかなセットポジションに入った。

 歴史に残る「偽物の初戦」。

 一久の指先から、因果を狂わせる一球が、今、放たれようとしていた。

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