偵察者と、完全なる同意
公式戦前日の午後。
河西が「これ以上動くとお前の筋肉が戸惑うだけだ」という、科学的根拠を無視した名言を捨て置いて練習を切り上げたため、一久は夕闇のグラウンドで一人、ぼんやりと空にボールを放り投げていた。
カシャ、と金網が悲鳴を上げた。
振り返ると、そこには場違いなほどの「殺気」を纏う二人組がいた。胸には明日の対戦校、絶対王者の名。先頭に立つ主将・佐々木は、甲子園の土を食って育ったような、精悍という言葉さえ生ぬるい威圧感を放っていた。
「……どちら様ですか。迷子なら職員室、あるいは動物園はあっちですけど」
「明日、お前らをスクラップにする予定の者だ」
佐々木は金網越しに、一久を検品するように眺めた。視線が、ひょろりとした一久の左腕に、毒蛇のように執拗に絡みつく。
「お前が、石井一久か」
「はい。戸籍上は。偽装するメリットもありませんし」
「……左投げか。同姓同名、おまけにサウスポー。ずいぶん出来すぎた広告塔だな」
佐々木は鼻を鳴らし、一久の「虚飾」を数秒で見抜いた。泥のついていないユニフォーム、重心の定まらない立ち方。そして何より、勝負師の欠片もない、虚無を湛えた三白眼。
「大したことないな。名前の重さに潰されているだけの、ただの素人だ」
鋭利な直球が、一久の胸に突き刺さった。
だが、一久は深く、聖者のように慈悲深い笑みで頷いた。
「おっしゃる通りです。僕も、自分に対して全く同じ感想を持っていました」
「……あ?」
「大したことないどころか、現状、野球部の『お荷物』担当です。できれば明日、隕石でも降って試合が中止にならないかと、宇宙に祈っている最中でした」
佐々木は二の句が継げなかった。
普通、ここで怒り狂うか、震えながら虚勢を張るのが「野球部員」だ。だが目の前の男は、鏡を見るような平然とした顔で、己の無能を全面肯定している。
「……俺を馬鹿にしているのか?」
「いえ、全力で尊敬しています。そんな化け物みたいな人と戦わなきゃいけない運命を、呪っているだけです。……怖くて、逃げ出したいですよ」
一久の目は、一点の曇りもなく「本気で怖がって」いた。その純度百パーセントの諦念に、佐々木の心の中に、正体不明の「違和感」がトゲのように刺さる。
「……チッ。拍子抜けだ。明日、五回までマウンドに立っていられるといいな。恥をかく前に、自分からマウンドを降りろ」
佐々木は吐き捨てるように言い、背を向けた。後輩が「今の、逆に不気味すぎませんか」と囁く声が、潮騒のように風に乗ってきた。
「バカ野郎! なんで同意してんだ、お前は!」
茂みから河西が飛び出してきた。偵察の偵察をしていた男の顔は、怒りと、そして隠しきれない戦慄で歪んでいた。
「事実ですから。あんな怖い人に嘘をついたら、後で呪われそうです」
「そこはハッタリをかますところだろ! 『本物の石井一久がお前を三振に取ると言っている』くらい言えよ!」
「そんなこと言ったら、一球投げる前にハードルが成層圏まで上がりますよ」
一久は、落ちてきたボールを左手でキャッチした。パシッ、という乾いた音が夕闇に響く。
「でも、あの人。僕のことを『大したことない』と百パーセント確信しましたよね」
一久の声から、感情が消えた。
「だったら、僕の球がホームベースの手前で、ほんの数センチ『この世にない動き』をしただけで、あの人のプライドは、勝手にバグを起こして壊れるんじゃないでしょうか」
河西は息を呑んだ。
目は相変わらず眠たげだ。だが、その瞳の奥に、かつてポスターで見た「死神」と同じ狂気の片鱗が、一瞬だけ瞬いた。
「……お前、確信犯か」
「いえ。半分は、サインをもらおうか迷っていただけです」
遠くの校門付近で、レジ袋を下げた稲尾和久が歩いているのが見えた。
彼は去り際、一久を見ることなく、左手の親指をグッと立てた——ように見えたが、単に鼻を掻いただけかもしれない。だが、その静かな肯定が、一久の左腕に「熱」を宿した。
公式戦まで、あと一夜。
石井一久は、完全なる沈黙と同意を武器に、マウンドで獲物を待つ「死神」の姿を、暗闇の中に描いた。
心臓の鼓動が、一回ごとに、重くなっていく。




