スタミナゼロの男と地獄のフルコース
公式戦前日の朝。石井一久は、投げ込み三十球目にしてマウンドに沈没した。
肺が過酷な労働環境に抗議し、酸素の供給を全面停止させている。土を舐め、砂を噛み、一久は「あ、これ死ぬ時の味だ」と冷ややかに理解した。
「まだ三十球だ。公式戦は最低でも七十五球。お前の細い動脈に、無理やり勝利のガソリンを流し込むぞ」
河西が突きつけたのは、よれよれのメモ帳――そこに記された「処刑リスト」だった。インターバル走、体幹、坂道ダッシュ、そして末尾に踊る不吉な四文字、「その他」。
「その『その他』が、僕の遺品整理のサインに見えるのですが」
「いいか、スタミナってのは『もう死ぬ』と細胞が悲鳴を上げてからが本番だ。脳に叩き込め。死の淵でこそ、お前のナックルは『完成』する」
練習は、拷問の様相を呈した。
並走する河西の競歩にすら引き離される、一久の「全力」疾走。プランク四十秒で腹筋がバラバラに砕け、学校裏の急斜面では十五本目のダッシュでついに、彼は電柱に情熱的に抱きついた。
「……離れろ。その電柱は野球部員じゃない」
「嫌です。こいつは僕の重力を、僕の無能さを、無言で、等身大で肯定してくれます……」
「電柱にアイデンティティを求めるな! あと五本だ!」
一久が電柱との今生の別れを惜しんでいると、坂の上からレジ袋を下げた稲尾和久が、神々しいほどに軽やかな足取りで現れた。
「スタミナがないのは、君の最大の長所だよ」
「……長所? 僕には……欠陥品にしか思えませんが」
「余計な動きをすれば死ぬ。その極限の恐怖が、君のナックルをより無駄のない『最小限の暴力』に変える。いいかい一久、明日、疲れたらマウンドで寝ていい。だが、ボールだけは宇宙へ捨ててきなさい」
稲尾は意味不明な金言を吐き捨てると、「レモン、皮ごといくと脳が震えるよ」と、黄色い果実を一つ残して去っていった。
全メニューが終了した時、一久は夕闇に染まるグラウンドで、宇宙の塵と化していた。
遠くで他の部員たちが、ボロ雑巾のようになった一久を、戦慄と敬意の混じった目で見つめている。「あの『石井一久』が、あそこまで……」という誤解が、静かに波及していく。
「……よくやった」
河西が、とげのない、重みのある声で言った。
「褒めないでください。明日の葬式が早まるだけです」
「お前のスタミナは依然としてゴミクズだ。だが今日、お前は三回、自分という限界を殺した。明日、スコアボードに刻まれるのは、ただの名前じゃない。相手の脳を焼き切る『死神の銘』だ。お前はただ、そこに立ってろ。あとは俺たちが、お前の代わりに走ってやる」
河西が差し出した右手を、一久は見つめた。
そして――その手を拒み、生まれたての小鹿のように膝を震わせながら、自力で、ゆっくりと立ち上がった。
「……走ってくれるなら、マウンドまでおんぶしてもらえませんか。審判に、介護だって言い訳しますから」
「……却下だ。お前のその震える足で、マウンドに穴を掘ってこい」
公式戦まで、あと半日。
一久の口内には、皮ごと噛み潰したレモンの、猛烈な酸っぱさと苦みが張り付いていた。
電柱は、明日もそこに立っている。
ならば、自分も立つしかない。
「石井一久」という名の、世界で最も無気力で、最も不吉な死神として。




