バットは宇宙人には、優しくない
朝の投げ込みを終えた一久は、水道の蛇口から溢れる冷水に、魂ごと顔を突っ込んでいた。
意識が遠のく。このまま水に溶けてしまえたら、どれほど楽だろうか。
だが、その安寧は、足元に突き立てられた二本の金属バットによって無残に引き裂かれた。
「次は打撃だ。その死にかけの体に、鉄を馴染ませろ」
河西が、地獄の門番のような顔で立っていた。一久は滴る水も拭わずに、死んだ魚のような目で顔を上げた。
「……僕はピッチャーですよね。投げたら、あとはベンチでカツカレーの妄想をするのが僕の仕事では?」
「うちは九人ギリギリだ。ピッチャーだろうが地蔵だろうが、打席に立て。最悪、バットを突き出しておけ。あとは相手のシード校様が、お前の『石井一久』という名前に怯えて、勝手に自滅してエラーするのを待つだけだ」
「なるほど。徹底した他力本願……僕の座右の銘にぴったりです」
バッティングゲージに立った一久は、一球目で見事に空を切り裂いた。あまりにも遅すぎるスイング。
「……涼しいですね。この風。夏なら有料級の扇風機ですよ」
「野球をやれと言ってるんだ! 空調設備になるな!」
二球目はバットを振る前に球が通り過ぎ、三球目に至ってはバットを振り切った一秒後に球が届いた。
河西が、胃を押さえて蹲る。
「お前……自分だけ一秒遅い別の次元に生きてるのか? 物理学の検問所で引っかかってるぞ」
休憩中、隣の席の「神様」こと稲尾和久が、いつの間にか隣で重箱を広げていた。
「六球目の、遠心力に負けてバレリーナみたいに回転したシーン。あれは芸術点が高い。笑いをこらえるのに腹筋が六つに割れそうになった」
稲尾は真顔で、卵焼きを口に運んだ。冗談を言っているようには見えない。一久は、この男の底知れない狂気に、背筋が寒くなるのを感じた。
「……アドバイスはないんですか。このままだと僕は明日、扇風機のフリをして終わります」
「球を見るのを、やめてみたら?」
「見なかったら、さらに当たらない気がしますが」
「君は『見よう』としすぎて、体の検問所が渋滞してるんだ。球を見るんじゃない。ピッチャーの指先から放たれる『殺気』のラインを見ろ。球はその線の上を、逃れられずに通っていく」
「野球漫画の読みすぎですよ、稲尾くん」
「僕は漫画は読まない。事実を言っているだけだよ」
稲尾は最後にブロッコリーを口へ放り込み、「まあ、当たったらラッキーだね」と残酷な現実を突きつけた。
再び打席に立った一久は、稲尾の言葉を自分なりに解釈した。球を見ない。何も考えない。思考を、夕食の献立に全振りする。
三十球目。飛んでくる白球を、母親がこねる「ハンバーグの種」だと思って、ぼんやりと眺めた。
景色が、一瞬だけ止まる。
指先から伸びる、赤い糸のような筋。
「……あ、邪魔だな」
カキン。
乾いた音が、静まり返ったグラウンドに響き渡った。
バットの先端に、力が抜けたまま当たった球が、サード方向に弱々しく転がっていく。それはあまりにも勢いがなく、それゆえに捕球を極めて困難にする、殺気ゼロのボテボテのゴロだった。
「……当たりました。ハンバーグをぺちぺち叩いた時の感触です」
「ハンバーグ……?」
河西は困惑し、それから震える手で一久の肩を掴んだ。
「いいか、一久! 本番でも、その『夕食』のつもりで打て! お前のその『ズレた時間』こそが、精密機械のようなシード校の歯車を狂わせる爆薬になる!」
遠くのベンチから、一度だけ、乾いた拍手が聞こえた。
稲尾和久が空の弁当箱を片付けながら、満足げに頷いていた。
公式戦まで、あと一日。
石井一久は三十一球目にして、野球という名の怪物の喉元に、小さな、しかし致命的な楔を打ち込んだ。
本人はまだ、ソースをデミグラスにするかおろしポン酢にするかしか、考えていなかった。




