神様、ご同席ください
翌朝。朝靄が這いずるグラウンドで、石井一久は死んでいた。
否、正確には直立したまま意識を飛ばしていた。
「走れ、一久! 心臓を止めろ、止まった瞬間が廃部だ!」
河西の怒号が霧を引き裂く。一久は重い瞼をミリ単位で持ち上げ、虚空に問いかけた。
「……廃部になると、どうなるんですか?」
「練習しなくて済む。野球という地獄から解放される」
「じゃあ、今すぐここで止まってもよくないですか」
「お前の左腕をへし折ってからにしてやる! 走れッ!」
一久は「あ、本気で殺される」と他人事のように察し、トボトボと泥を蹴り始めた。
十周で息が上がり、二十周で視界がセピア色に染まる。這うように辿り着いたマウンドで、河西は無慈悲にボールを突き出した。
「投げ込み百球。一球でも抜いたら、明日の朝飯は抜きだ」
一久は一球投げ、空を流れる雲の形を数えた。二球投げ、自分のささくれを愛でた。
「今、何球目だ!」
「……三球目、あたりで宇宙の心理について考えていました」
「今ので五十球目だよ! 集中しろ、その三白眼をかっ開け!」
八十球目を過ぎる頃、一久のフォームは野球という概念から逸脱していた。それはまるで、腰を痛めた老人が粗大ゴミを遠くの川へ不法投棄するような、あまりにも不格好で、しかし奇妙に脱力した運動だった。
一時間目のホームルーム。一久が机に突っ伏し、死後硬直のような眠りに落ちようとしたその時――耳元で、冷徹なまでに澄んだ声がした。
「ナックルの握り。中指をもう少し立てろ。お前は無意識に、爪が剥がれる恐怖に指を逃がしている」
顔を上げると、隣の席に見知らぬ男が座っていた。
整いすぎた顔立ち。その瞳には、一久のそれとは正反対の、鋼のような意志が宿っている。
「稲尾和久。君の隣で、君が世界を騙す瞬間を見届ける者だ」
「……神様みたいな名前ですね。鉄腕の」
「一九五八年、三連敗から一人で四連勝。あの伝説を背負わされて、僕の人生は白球一色に塗り潰された。通知表に『3』があれば、父は僕をマウンドに立たせ、ストライクが入るまで食事を許さなかった」
稲尾は静かに、自分の指先を見つめた。そこには、血の滲むような練習を物語る、異常に発達した指の筋肉があった。
「……それは大変ですね。僕は同じ『一久』でも、たまに親戚にカツカレーを奢ってもらえる程度の人生でした」
「格差に目眩がするな。だが――」
稲尾の視線が、一久の細い左腕を貫いた。
「君のナックルには、僕の父も、そして僕自身も持ち得なかった『虚無』がある」
放課後のマウンド。河西の放つノックは、一久の股間を嘲笑うように通り過ぎていく。
「捕る気があるのか、石井!」
「あります。でも、ボールの方が僕を嫌って避けていくんです。磁石の同極同士みたいに」
怒声と野次の中、一久は最後の一球を握った。
隣の席の「神様」に言われた通り、爪を肉に食い込ませる。ボールを支配するのではない。ボールを、この世界から放逐するような感覚。
「どこへでも、好きなところへ消えてくれ」
白球が放たれた。
それは、やる気のない放物線を描き、打者の手元まで力なく揺られた。
(――打てる!)
捕手役の部員が確信した、その刹那。
白球が、空間を噛みちぎった。
右へカクッ、左へフワッ、そして重力が消失したかのように一瞬静止し――地面へ、垂直に突き刺さった。
「ヒッ……!?」
捕手が悲鳴を上げ、尻餅をつく。ボールはミットの数メートル手前で「落下」ではなく「転移」していた。
「……今、一瞬消えた。消えたぞ、おい!」
部員たちの戦慄を背に、一久は大きくあくびを漏らした。
「いえ、普通に投げましたよ。肩が凝るから、もう帰ってもいいですか」
フェンスの向こう側。影に沈んだ稲尾和久が、満足げに口角を上げた。
「いいぞ、一久。君は、決して真面目に野球をやってはいけない。その無気力こそが、打者の脳を焼く最高の毒だ」
公式戦まで、あと二日。
歴史に残る「壮大な詐欺劇」は、一人のやる気のない天才と、一人の呪われた神様の手によって、怪物へと変貌を遂げようとしていた。




