その名は、死刑宣告
四月の体育館。充満する埃と、安っぽい芳香剤と、そして「未来」なんていう吐き気のするような希望の匂い。石井一久は、そのすべてを呪っていた。
吹奏楽部が奏でる行進曲は、一久の耳には死刑台への足音にしか聞こえない。周囲の一年生たちが「何部入る?」と浮ついた声を上げるたび、彼はパイプ椅子の冷たい脚を強く握りしめた。
この高校での三年間、成し遂げるべきことはただ一つ。
誰の記憶にも残らず、幽霊のように卒業すること。それだけだ。
「左投げの石井君! 期待してるよ!」
その言葉を何度投げつけられ、何度裏切ってきたか。ストライクが入らない。球速も出ない。大人の顔から期待が剥げ落ち、嘲笑へと変わる瞬間を、彼は十五年間、特等席で見せつけられてきた。
「石井一久」という名前は、彼にとって輝かしい勲章ではない。一生外れない重い足枷だ。
「……おい。死んだ魚の目をしたサウスポー」
不意に、鼓膜を抉るような声がした。
振り返れば、そこには獲物を狙う猛禽のような瞳があった。学ランを乱暴に着崩した男。河西という名のその男は、一久の魂を値踏みするように見据えていた。
「俺は河西。野球部のマネージャーだ。お前に、地獄への招待状を持ってきた」
「野球は辞めました。才能の欠片もない。一ミリも、だ」
「野球部が死ぬ」
河西の声が、体育館の喧騒を力ずくでねじ伏せた。
「次の公式戦で負ければ廃部。部員は八人。エースは昨日、無様に階段から転げ落ちて左腕を砕いた。完全に詰みだ。……だがな、神はまだ俺を見捨てちゃいなかった。この最底辺の泥溜めに、『石井一久』を投げ込みやがった」
連れて行かれた部室。その壁には、一枚の古びたポスターがあった。
青いユニフォームを纏い、マウンドで咆哮する「石井一久」。
同じ名前。同じ左投げ。そして、眠たげでいて、その奥に狂気を孕んだ三白眼。
「次の相手の監督はな、かつて本物の石井一久に、甲子園でノーヒットノーランを食らって人生を狂わされた男だ。そのトラウマの前に、全く同じ名前、同じフォームの左腕が現れたらどうなると思う? ……脳が焼ける。勝手に幻影を見て、勝手に自滅する。これは試合じゃない。壮大なペテンだ」
「……バカバカしい。詐欺じゃないですか」
「勝てば戦略、負ければペテンだ。お前は一生、その名前に怯えて逃げ続けるのか? それとも、その呪いを武器に変えて、世界を指先一つで騙してみるか?」
河西の手から、泥に汚れた硬球が放たれた。一久は反射的に、それを左手で掴んだ。
重い。石のように重い、絶望の感触だ。
「一球だ。一球だけ、その腐った腕を振ってみろ」
夕暮れのグラウンド。マウンドに立つ一久は、今にも消えてしまいそうなほど細く、頼りなかった。
投げやりな、自暴自棄の投球。腕を振る。
「ポスッ」。
捕手のミットが、情けない音を立てた。バックを守る部員たちが、隠そうともせず鼻で笑う。
「……やっぱりな。名前だけかよ」
その嘲笑が、一久の胸の奥で燻っていた不発弾に、火をつけた。
――まただ。またこの反応だ。
期待し、勝手に失望し、最後には笑う。
ふざけるな。俺を笑うな。この名前を、笑うな!
「……もう一球。今度は、俺のやり方で投げさせてください」
無意識に、言葉が溢れた。一久はボールを握り直した。
正規の握りではない。縫い目を無視し、爪の先で、球の回転を殺すように、魂を削り取るように深く。
セットポジション。一久の全身の関節が、軋む音を立てた。
振り下ろした左腕。放たれた白球は、意思を持たない綿毛のように、ゆらりと宙を舞った。
(なんだ、あのスローボールは――)
打席の部員が、確信を持ってバットを振り抜こうとした、その瞬間。
空間が歪んだ。
球は、ホームベースの直前で、物理法則をあざ笑うように右斜め下へと「消えた」。
落ちたのではない。そこにあるべきはずの球が、因果関係を無視して別の次元へ滑り落ちたような、異様な、不吉な軌跡。
ボフッ!
ミットの芯を大きく外れ、ボールは河西の胸板を強打した。
風の音さえ、消えた。静寂が、グラウンドを支配する。
「……今のは、なんだ」
河西の声が、震えていた。
「……分かりません。ただの、コントロールのつかないクソボールです。自分でも、どこへ行くか分からない」
河西が、ゆっくりと、しかし確実に立ち上がった。
その顔は、狂喜と野心で引き攣り、獣のような笑みを浮かべていた。
「クソボールだと? ……笑わせるな! それは、神様がペテン師に与えた、世界を滅ぼすための小道具だ! いいか、石井一久。野球ってのは、相手を絶望させた方が勝つスポーツなんだよ。その名前と、今の一球さえあれば――世界はお前の前にひれ伏す!」
一久は、自分の左手を見つめた。
指先が熱い。焼けるように熱い。
生まれて初めて、この忌々しい名前を「武器」と呼ぶ男が現れた。
生まれて初めて、この役立たずの左腕を「死神」と呼ぶ男が現れた。
「三日間だ。三日間で、お前を本物の『死神』に仕立て上げてやる。……準備はいいか、石井?」
校舎に、終わりのチャイムが響き渡る。
廃部まで、あと三日。
一久は、泥だらけのボールを、指先が白くなるほど強く、強く握りしめた。
心臓の鼓動が、うるさいほどに速まっていた。




