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石井一久物語  作者: 水前寺鯉太郎
3年生編

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汚れた白球

 三月、宮崎。

 桜の蕾が膨らみ、春の息吹が街を彩り始めていたが、鳳凰大附属のグラウンドには、例年響くはずの活気ある声はどこにもなかった。

 部室の隅。一久は、新品の、しかし一度も日の目を見ることのなかった「センバツ仕様」のグローブを、埃を被る前にただじっと見つめていた。

「……黒田さん。コーチの言う通り、僕が『指示通りにナックルを捨てて』、百四十キロの直球だけを淡々と投げていれば……。今頃、甲子園の食堂で、最高のアイスを食べられてたんですかね」

 隣で拳を血が滲むほど握りしめている黒田が、腹の底から低く唸った。

「……バカ野郎。お前が魂を売らなかったからこそ、俺たちの野球は死ななかったんだ。……だが、あの手を出したのだけは、……マズかったな」

 数週間前。

 新しく就任した戦略担当コーチが、一久の投球を「根拠なきギャンブル」と切り捨て、徹底したデータ野球への隷属を強要した。一久の「感覚アイデンティティ」を全否定する冷酷な言葉に、普段は感情の起伏を見せない彼が、生まれて初めて「自分の中の聖域」を侵されたと感じ、詰め寄った。

 止めに入る部員、怒鳴り散らすコーチ。もみ合いの中で放たれた一久の左拳。

 その代償は、チーム全員の「春」を奪うという、絶望的なまでに重いものだった。

 校門の前。放送部の腕章を外した木佐綾子が、フェンス越しに一久の背中を見つめていた。

 彼女のマイクは、今は一久に向かうことを禁じられている。だが、彼女の瞳はかつてないほど雄弁に、彼に問いかけていた。

(……一久くん。私、知ってるよ。あなたが守りたかったのは、安っぽいプライドじゃない。『鳳凰大附属という、誰もが自由でいられる場所』だったんだって)

 一久は、彼女の視線から逃げるように部室を後にした。

 向かった先は、いつものドッグカフェ。足元に寄ってくる犬たちに、彼は溶けかかったバニラアイスを指先で少しだけ分けてやった。

「……ごめんね。僕、もうすぐ誰にも名前を呼ばれない、ただの『暴力ピッチャー』になるみたいだ。……でも、僕のナックル、あんなデータの箱には入りきらなかったんだよ」

 そこへ、一人の男が気配もなく隣に座った。稲尾和久。

 彼はレジ袋から、不吉なほど白く凍りついた「どん底の(自称)」賞味期限ギリギリの冷凍みかんを取り出した。

「……ふふ。一久くん。氷点下の沈黙の中でしか、磨けない刃がある。世間は君を『問題児』と嘲笑い、スカウトたちは君のリストをゴミ箱へ捨てた。……だがね、君の左腕の中に眠る『謎』だけは、まだ誰の指紋もついていない、純粋なままだ」

 稲尾は、一久の泥と後悔に汚れた練習着を指差した。

「……夏まで、半年。君はこの『空白』という名の地獄を、どんな色で塗りつぶすかな?」

 一久は冷凍みかんの硬い皮を、爪を立てて剥きながら、遠い空を仰いだ。

 甲子園では今頃、自分たちを破った愛工大名電の鈴木一朗たちが、まばゆい光の中で野球の「正解」を証明している。

「……稲尾さん。僕、決めました。夏は、誰の指示も、データの数式も聞かない。僕のナックルに、僕の『石井一久』という名前を全部乗せて、あいつら全員の脳をバグらせてやります。……それでダメなら、僕は一生まっとうな仕事には就けませんから。ここでバイトさせてもらいます」

 鳳凰大附属、最大の危機。

 エース・石井一久の「最悪の春」が、日本中を戦慄させる「逆襲の夏」への、残酷で美しいプロローグとなる。

 一久の剥いたみかんの汁が、傷ついた拳に、鋭く、熱く染みた。

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