不毛の荒野
宮崎県営野球場。
一年前、あんなに温かかった拍手と歓声は、今や氷のように冷ややかな視線と、棘のある野次に塗り替えられていた。
「乱闘チームが何しに来た!」「甲子園を汚した自覚あんのか!」
バックネット裏から容赦なく浴びせられる罵声が、鳳凰大附属のベンチを物理的な圧力となって押し潰す。
「……黒田さん。あそこのおじさん、僕にバニラアイスじゃなくて、大量の塩を投げようとしてますよ。……僕、おにぎりじゃないし、お浄めされる筋合いもないんですけどね」
ベンチの隅で、一久がぽつりと呟いた。その目は微塵も笑っていない。三白眼の奥には、氷穴のような暗い光が宿っている。
「一久、気にするな。……俺が、あのクソ野郎どもの口を、全部ミットの音で縫い合わせてやる」
黒田は剥き出しの闘志を隠そうともせず、地を蹴ってマウンドへ向かった。
対する小林工業のマウンドには、気迫のエース・星野が立っていた。
内角を攻め抜く強気な姿勢。それは、不祥事で揺れた鳳凰大附属の「心の綻び」を確信し、そこを徹底的に穿とうとする正義感に満ちた攻撃だった。
『さあ、波乱の幕開けとなりました宮崎大会一回戦。注目の鳳凰大附属、先発は背番号10の黒田くんです。……実況席には、私、木佐が座らせていただきます』
木佐綾子の声は、プロとして努めて冷静だった。だが、彼女の手元にあるボロボロの資料には、謹慎期間中、照明も消えたグラウンドで泥だらけになりながら、無言でボールを投げ続けた部員たちの記録が、涙の跡のような滲みと共に書き込まれていた。
一回表、黒田の立ち上がり。
数ヶ月分の鬱屈を白球に封じ込めた、百四十八キロの直球。しかし、燃えすぎた「火」は制御を失っていた。四球、そして連打。小林工業は、乱れた黒田の焦燥をあざ笑うようにスクイズを決め、いきなり先制点を奪う。スタンドからは「それ見たことか!」「ざまあみろ!」と残酷な嘲笑が沸き起こった。
「……大輔くん、見て。黒田さんのボール、怒りで真っ赤に燃えて、溶けかかってる。……あれじゃあ、キャッチャーのミットが火傷して、試合が終わっちゃうよ」
一久はベンチの最前列に立ち、マウンドで肩を揺らす相棒を、氷のような眼差しで射抜いた。
五回終了、零対二。星野の「正義の直球」の前に、村上のバットさえも空を切り、鳳凰大のベンチには「自業自得」という名の絶望が立ち込めていた。
その時。ベンチの端でレジ袋をガサつかせていた稲尾和久が、一久の肩を小さく叩いた。
差し出されたのは、不吉なほど鮮やかな青色をした「再生の(自称)」半分に割ったソーダバー。
「……ふふ。一久くん。黒田くんの『火』は、もうすぐ灰になる。……君の冷酷な『氷』で、この沸騰した球場を、一瞬で凍りつかせてきなさい。……日本中を敵に回して投げる気分は、どうだい?」
「……最高に不純で、最高に僕らしい気分ですよ、稲尾さん。……僕の名前を、安っぽい野次じゃなくて、絶望的な『驚き』で上書きしてきます」
六回裏、無死満塁。絶体絶命の窮地。球場を包む罵声が最高潮に達し、審判の声さえかき消されようとしたその時。
背番号「1」を背負った男が、あくびを噛み殺すような足取りで、ゆっくりとマウンドへ歩み出た。
石井一久、高校最後の夏。
泥と悪意にまみれた死神が、ついにその魔球を、聖地への生贄として解禁する。
一久がボールを握った瞬間、球場から、ふっと風が消えた。




