真夏の落日
延長十二回表、二死。
琥珀色の空の下、カクテル光線に照らされた白球が、死神の指先から、最後のハッタリとして放たれた。
無回転のナックル。それは、甲子園という魔物が吐き出した最後のため息のように、空気の層を激しく蹂躙し、打者の手元で、抗うことのできない不吉な「揺れ」を見せた。
だが。
鈴木一朗のバットは、その混沌の奥にある一点の「正解」を、吸い寄せられるように射抜いた。
パシィィィィンッ!
乾いた、しかしあまりにも純粋な音が、四万人の静寂を切り裂いた。
一久は、マウンドで崩れるように膝をついた。仰ぎ見た空には、もう、彼を甘く包む「バニラ色の雲」はなかった。ただ、一筋の鋭い光の軌跡が、ライトスタンドへと消えていく。
『入ったぁぁぁ! 鈴木くん! 延長十二回、歴史を動かすソロホームラン! 一久くんの『最凶の嘘』を、天才の『至高の真実』が撃ち砕きました!』
木佐綾子の声が、もはや言葉にならない絶叫となり、そして――。
実況を忘れた、一人の少女の慟哭となって、甲子園の夕闇に溶けていった。
十二回裏、鳳凰大附属の攻撃。西山の「トレンディな執念」の前に、鳳凰の翼は、静かにその動きを止めた。
零対一。
整列の際、一久の瞳に涙はなかった。
ただ、目の前に立つ鈴木一朗の、鋼のようにしなやかな右手を握りしめ、彼はかつてないほど清々しい「嘘のない笑顔」を見せた。
「……鈴木さん。あなたのバット、僕の用意してた特大アイス、全部ひと飲みでしたね。……完敗です」
「……石井くん。君のボールは、僕の予言を何度もバグらせた。……また、もっと高いところで会おう。君の『名前』、忘れないよ」
甲子園の土を袋に詰める一久の背中に、最後の西日が差す。その隣で、松坂が、村上が、藤岡が、この夏という名の宝物を失うことを惜しむように、泥にまみれて泣いていた。
ベンチの端。稲尾和久が、レジ袋から「惜別の(自称)」少し溶けて塩味が混ざったアイスを取り出し、それを黙って一久に差し出した。
「……お疲れ様、一久くん。君のハッタリの旅は、ここで一度終わった。……でもね。君の名前は、もう『石井一久』という一人の男の誇りとして、この国の歴史に深く、深く刻まれたよ。……いい味だったろう、この夏は」
放送席で、木佐綾子が静かにマイクを置いた。
彼女は、モニターに映る一久の、小さくなった、しかし確かな重みを持った背中を見つめ、そっと涙を拭った。
「……おかえりなさい、一久くん。……私の、最高のエース」
鳳凰大附属、準優勝。
死神と呼ばれた少年の「不純な動機」が、聖地の土を、最も純粋な「伝説」へと書き換えた夏が、静かに、幕を閉じた。
一久の口の中に広がるアイスの味は、驚くほど冷たく、そして――。
どこまでも、甘かった。




