表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
石井一久物語  作者: 水前寺鯉太郎
2年生編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
46/48

真夏の落日

 延長十二回表、二死。

 琥珀色の空の下、カクテル光線に照らされた白球が、死神の指先から、最後のハッタリとして放たれた。

 無回転のナックル。それは、甲子園という魔物が吐き出した最後のため息のように、空気の層を激しく蹂躙し、打者の手元で、抗うことのできない不吉な「揺れ」を見せた。

 だが。

 

 鈴木一朗のバットは、その混沌の奥にある一点の「正解」を、吸い寄せられるように射抜いた。

 パシィィィィンッ!

 乾いた、しかしあまりにも純粋な音が、四万人の静寂を切り裂いた。

 一久は、マウンドで崩れるように膝をついた。仰ぎ見た空には、もう、彼を甘く包む「バニラ色の雲」はなかった。ただ、一筋の鋭い光の軌跡が、ライトスタンドへと消えていく。

『入ったぁぁぁ! 鈴木くん! 延長十二回、歴史を動かすソロホームラン! 一久くんの『最凶の嘘』を、天才の『至高の真実』が撃ち砕きました!』

 木佐綾子の声が、もはや言葉にならない絶叫となり、そして――。

 実況を忘れた、一人の少女の慟哭となって、甲子園の夕闇に溶けていった。

 十二回裏、鳳凰大附属の攻撃。西山の「トレンディな執念」の前に、鳳凰の翼は、静かにその動きを止めた。

 零対一。

 

 整列の際、一久の瞳に涙はなかった。

 ただ、目の前に立つ鈴木一朗の、鋼のようにしなやかな右手を握りしめ、彼はかつてないほど清々しい「嘘のない笑顔」を見せた。

「……鈴木さん。あなたのバット、僕の用意してた特大アイス、全部ひと飲みでしたね。……完敗です」

「……石井くん。君のボールは、僕の予言を何度もバグらせた。……また、もっと高いところで会おう。君の『名前』、忘れないよ」

 甲子園の土を袋に詰める一久の背中に、最後の西日が差す。その隣で、松坂が、村上が、藤岡が、この夏という名の宝物を失うことを惜しむように、泥にまみれて泣いていた。

 ベンチの端。稲尾和久が、レジ袋から「惜別の(自称)」少し溶けて塩味が混ざったアイスを取り出し、それを黙って一久に差し出した。

「……お疲れ様、一久くん。君のハッタリの旅は、ここで一度終わった。……でもね。君の名前は、もう『石井一久』という一人の男の誇りとして、この国の歴史に深く、深く刻まれたよ。……いい味だったろう、この夏は」

 放送席で、木佐綾子が静かにマイクを置いた。

 彼女は、モニターに映る一久の、小さくなった、しかし確かな重みを持った背中を見つめ、そっと涙を拭った。

「……おかえりなさい、一久くん。……私の、最高のエース」

 鳳凰大附属、準優勝。

 死神と呼ばれた少年の「不純な動機」が、聖地の土を、最も純粋な「伝説」へと書き換えた夏が、静かに、幕を閉じた。

 

 一久の口の中に広がるアイスの味は、驚くほど冷たく、そして――。

 どこまでも、甘かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ