鳳凰の凱歌
八月二十一日、阪神甲子園球場。
午後二時の陽光は、もはや一つの「熱の暴動」と化していた。超満員の四万七千人。その熱狂を背に受けて整列する二つのチームの間に、一筋の冷たい火花が散っていた。
マウンドで洗練された、無駄のない挙動を見せる愛工大名電の西山。その投球は、夏の夕暮れの都会の夜景のように美しく、打者の手前で鋭く消え去るスライダーは、もはや超常の芸術品だった。
「……黒田さん。あの西山さんって人、立ってるだけでファッション誌の表紙ですね。……僕なんて、さっきから首の氷嚢が溶けて、バニラアイスをこぼしたみたいなシミになってるのに。……少しは、その『トレンディな余裕』を僕に分けてほしいですよ」
一久がマウンドの黒土をスパイクでいじりながら、いつものように無関心を装ってぼやく。
「一久、見た目じゃない! アイツの右腕は、技術と理論の結晶だ。……それより、ネクストで構えてるアイツを見ろ。……視界が歪んで見えるぞ」
一久の視線の先に、背番号「8」、鈴木一朗がいた。
独特のルーティンでバットを垂直に立て、鋭い眼光が射石機のようにマウンドの一久を貫く。
(……あの人……。バットが、指先どころか神経の末端まで繋がってる。……僕の『嘘』、あの人の精密なバットに、中身ごと食べられちゃうかもしれない)
『さあ、いよいよプレーボール! 夏の甲子園、決勝戦! 鳳凰大附属、先発はもちろんエース、石井一久くんです!』
木佐綾子の声が、マイク越しに僅かに、しかしはっきりと震えていた。
一久は、一度だけバックネット裏を仰ぎ見た。
(……木佐さん。よく見てて。あんなに格好いい人たちから、世界で一番『泥臭い』勝利を強奪して、明日、君と特大のアイスを食べるから)
一回表、一久対鈴木。
内角を抉り抜く、百三十八キロのクロスファイアー。鈴木はそれを紙一重の呼吸でかわし、右翼線際へ、空気を切り裂く鋭いライナーを放った。ファウル。だが、一久の背筋に、氷水を流されたような冷たい汗が伝う。
(……この人。僕の『デタラメ』を、投げる前から全部『既知の事実』として予言してる……!)
一方、鳳凰大打線も西山の「消えるスライダー」という迷宮に迷い込んでいた。沖縄の剛腕を粉砕した村上宗隆の圧倒的なパワーですら、西山の「躱す」美学の前に空振りを繰り返し、苛立ちがベンチを侵食する。
五回終了、零対零。
ベンチに戻った一久に、藤岡が、青白く光る眼鏡の奥からデータノートを差し出した。
「……一久。西山くんを攻略するのは、理論じゃない。あえて『計算外の挙動』で彼自身のプログラムをバグらせるしかない。……そして鈴木くんの攻略法だが……。すまない、僕の計算機には、今も『該当なし』の文字が点滅している。あれは、論理の範疇を超えた生命体だ」
「……計算機を壊すほどの天才か。……最高に面白いね。なら、僕が論理そのものをゴミ箱に捨てるような、最悪のボールを投げるだけだよ」
ベンチの端。稲尾和久がレジ袋から、不吉なほど輝く「日本一の(自称)」金箔を散らした最高級ソフトクリームを取り出した。
「……ふふ。一久くん。君の『名前』が、ついに日本の頂点に王手をかけた。呪いだった名前が、今や日本中の希望になったね」
稲尾は、黄金色に輝くアイスを一口舐め、静かに続けた。
「鈴木くんという『未来』を、君の『今』という名の嘘で止めてごらん。死神が神様を食い殺す瞬間を、私に見せておくれ」
九回裏、一点を争う、喉元を掻き切るような攻防。
一久の左腕が、西山の右腕が、そして鈴木のバットが、甲子園の、いや日本野球の歴史を、今この瞬間、永遠に書き換えようとしていた。
一久の口の中に、バニラの甘さと、鉄の味が混ざり合う。
さあ、最後の「死刑宣告」だ。一久は、左指を、深くボールへと沈ませた。




