剛腕の咆哮
沖縄尚学のアルプスから響く、指笛と三線のリズム。それは、甲子園の焦熱をさらに煽るような、重厚な熱帯のプレッシャーとなって鳳凰大のベンチを襲っていた。
ベスト8を懸けた第四試合。マウンドに上がった伊良部は、投球練習の一球目から、甲子園の物理限界を書き換えようとしていた。
捕手のミットが、乾いた銃声のような悲鳴を上げる。
スコアボードに叩きつけられた数字は、百五十三キロ。
「……一久さん。あの伊良部さんって人、ボールを投げるんじゃなくて、火のついた砲丸を射出してます。……あんなの掠っただけで、僕の身体、あそこのバックスクリーンまで消し飛ばされちゃいますよ」
松坂大輔が、ヘルメットの鍔を震える手で深く押し下げた。
「……大輔くん、大丈夫だよ。砲丸だって、上にバニラアイスを乗せて『アフォガート風』にすれば、少しは飲み込みやすくなるから。……ほら、藤岡さんの眼鏡が、さっきから『砲丸の着弾点』を計算して青白く光ってる。あれが僕らの弾道ミサイル迎撃システムだよ」
一回表、藤岡の立ち上がり。
彼は伊良部の暴威とは真逆に、氷点下の理性でストライクゾーンの境界線をなぞり続けた。沖縄尚学の強打者たちは、伊良部の百五十キロに慣らされた脳を、藤岡の百三十キロの「出し入れ」というバグによって麻痺させられていく。スタジアムが伊良部の「力」に酔いしれる中、藤岡だけは一人、静寂の中で難解な数式を解くようにアウトの山を築いていった。
しかし五回裏、鳳凰大附属の攻撃。絶対王者の門番、伊良部が真の牙を剥く。
怪獣・村上宗隆のフルスイングが、伊良部の百五十五キロという暴力的な質量に正面から押し潰された。激しい金属音と共に、村上の愛棒が、飴細工のように無惨に粉砕される。
「……くそっ。あんなの、人間が投げていい球じゃない……」
ベンチに戻った村上の両手は、今なお激しく痺れ、指先は感覚を失っていた。
だが、藤岡が眼鏡の位置を指一本で直し、データノートをパタンと閉じた。
「……村上、一久。解析は完了した。伊良部くんの直球には、一イニングに数球、指にかかりすぎて軌道がわずかに『跳ねる』瞬間がある。そこだけを狙えば、僕らの安打確率は十二パーセントから三十五パーセントにまで跳ね上がる。……ここからは、計算とデタラメの共同作業だ」
「三十五パーセントか。……藤岡さん、上等だよ。僕がナックルで、相手の脳を完全にフリーズさせて、その数字を無理やり『百パーセント』に書き換えてくるよ」
六回表、二死一塁。
精密機械が命を削って繋いだバトンを、死神・石井一久が受け取った。
ベンチの端。稲尾和久がレジ袋から、不吉なほど黄色く輝く「南国の(自称)」少し溶けたシークワーサー・シャーベットを取り出した。
「……ふふ。藤岡くんが『解』という名の光を見せた。……一久くん。君の仕事は、その酸っぱい光を、伊良部くんの剛腕の中に不純物として放り込むことだ。君にしかできない、最高に不味い嘘をね」
一久対伊良部。
音速に迫る「正義」に対し、物理法則を嘲笑う「ペテン」が挑む。
一久はシャーベットを一口含み、その強烈な酸味に目を細めながら、マウンドへとゆっくり歩みを進めた。
「……木佐さん。今から、あの砲丸を『綿菓子』に変えてくるから。よく見てて」
死神の指が、白球の縫い目に深く、冷たく食い込んだ。




