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石井一久物語  作者: 水前寺鯉太郎
2年生編

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麒麟の牙、石切りの盾

 快晴の阪神甲子園球場。

 だが、グラウンドに流れる空気は、真夏の陽光さえ凍りつかせるほどに重く、鋭かった。

 次なる相手は、嘉義農林(KANO)。去年の春、鳳凰大附属の夢を「圧倒的な野生」で粉砕した宿敵。あの敗北の味を、一久は、そして鳳凰ナインは、一瞬たりとも忘れたことはなかった。

 マウンドに立つ嘉義農林のエース、呉明捷。

 そのフォームは、深い森の中を駆ける鹿のようにしなやかでありながら、放たれる白球は、獲物の喉笛を正確に射抜く猛獣の爪そのものだった。

「……黒田さん。あの呉さんって人、走る姿はあそこの川の岸辺を駆ける鹿みたいで綺麗。……でも、リリースの一瞬だけ、目が飢えた狼になりますね。……僕、あんな目で見られたら、バニラアイスの味が全部『砂』になっちゃいそう」

 一久はベンチで、溶けかかった氷嚢を頭に乗せ、冷たい蒸気を吐き出しながら呟く。

「一久、あれが海を越えてきた『KANO』の魂だ。……だが、今日のエースはアイツじゃない。……大輔、お前の『地面』をあいつらに見せてやれ」

 一回表、嘉義農林の攻撃。

 先発の松坂大輔は、緊張で指先が氷のように震えていた。だが、打席に入るKANOの打者たちの、魂まで見透かすような眼光と対峙した瞬間、彼の脳裏に故郷・九州の濁流の景色が浮かんだ。

(……落ち着け。野球は、石切りと同じだ。地面スレスレから、あのキャッチャーミットという『向こう岸』まで、一番いい角度で水面を叩く……ただ、それだけだ!)

 シュパッ。

 松坂は膝が土を擦るほどの低重心から、右腕をしならせた。

 百二十二キロ。球速だけなら平凡。だがその白球は、一度沈み込み、打者の手元で石が跳ねるように不規則な軌道を描いた。嘉義農林の俊足たちが、タイミングを完全に狂わされ、次々と内野の土を叩くゴロに倒れていく。

 一方、鳳凰大打線もまた、呉明捷という名の「絶望」に直面していた。

 速さだけではない。打者の呼吸を、瞬きの回数さえも読み切ったような配球。村上宗隆が咆哮と共に打席に入っても、呉は不敵な微笑みを崩さず、内角をえぐるシュートで、怪物のバットを意志ごと粉砕せんばかりの気迫を放った。

「……大輔くん。君のボール、さっきからKANOの人たちが『魔法使いかよ』って顔で見てるよ。いい感じだ。そのまま、マウンドを耕して、甲子園に新しい川を作るくらい低く投げ続けて」

 一久の、無責任極まりない、しかし不思議と肩の力が抜けるアドバイスが、松坂の野生を加速させる。

 四回終了、零対零。

 

 木佐綾子が、張り詰めた糸のような声で実況を続ける。

『両投手、まさに一歩も引かない死闘です! 去年の雪辱をその左腕に誓った鳳凰大附属、そして伝統の誇りを背負い、海を越えてきた嘉義農林。……一球ごとに、一年間の執念が火花を散らしています!』

 ベンチの端。稲尾和久がレジ袋から、不吉なほど香ばしい「リベンジの(自称)」少し辛い台湾唐揚げを取り出した。

「……ふふ。松坂くんが『地』を這い、呉くんが『空』を切り裂いているね。……この美しい均衡を壊すのは、敗北の痛みを知っている、君の世代の『汚い執念』かな?」

 五回裏、鳳凰大附属の攻撃。二死一、三塁。

 重苦しい沈黙を切り裂いて、九番・石井一久が、バットを杖のように引きずりながら打席へと向かう。

 一久対呉明捷。

 

 去年の春、一久の意識を焼き切った男と、ハッタリで聖地まで這い上がってきた死神。

 一久は打席で、呉の猛獣のような目を見つめ返し、小さく、誰にも聞こえない声で囁いた。

「……呉さん。僕、勝って最高のバニラアイスを食べるって、彼女と約束したんです。……だから、あなたの『誇り』、僕の『嘘』で塗りつぶさせてもらいますよ」

 リベンジのドラマが、今、甲子園の魔物を飲み込んで動き出す。

 一久のバットが、夕陽を浴びて不気味な光を放った。

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