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石井一久物語  作者: 水前寺鯉太郎
2年生編

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王者の静寂

 五回裏、鳳凰大附属の攻撃。

 スコアボードに刻まれた「0ー2」の数字。大阪桐蔭のアルプススタンドからは、もはや勝利の儀式を始めるかのような、余裕に満ちたチャンステーマが響き渡っていた。

 マウンドの北別府は、依然として冷徹な「秩序」を体現していた。その瞳には、焦りも、一点の驕りもない。ただ淡々と、精密なプログラムを遂行するように、捕手のミットが要求する「正解」へ白球を詰め込み続ける。

 鳳凰大の打者が、一ミリの狂いもない外角直球に手を出し、虚空を切る。これで二死。

 そこへ、一歩ずつ地面を噛みしめるように、一年生・村上宗隆が打席へと向かった。初回の対戦では、完璧な配球の前に三振を喫し、王者の「理」に跪かされた男。

(……村上。お前の『暴力的な力』は認めよう。だが、俺の『絶対的な制球』は、お前のような未熟な怪物には決して届かない)

 北別府は、レンズのように冷たい眼差しで村上の心臓を射抜こうとした。

 初球。内角の皮膚を焦がすようなシュート。村上は微動だにせず、ただ眼光だけでそれをやり過ごした。ボール。

 二球目。外角低め、百四十キロ。絶望的なまでに美しいコース。だが、村上の重心は、岩のように一分もブレない。

(……見えた。アイツの球、綺麗な箱の中に収まっているんじゃない。……空中に、一本の『線』を引いているんだ)

 運命の三球目。北別府が投じた、最強の「回答」――外角へ逃げるスライダー。

 しかし、村上はその「線」の、物理法則が支配するはずのたった一箇所の「急所」を見逃さなかった。

 ガキィィィィンッ!

 音がスタジアムを支配した。桐蔭の吹奏楽さえも一瞬で打ち消すような、雷鳴。

 打球は、漆黒のライナーとなってライトスタンドを急襲した。

『入ったぁぁぁ! ホームラン! ホームラン! 一年生、村上くん! 北別府くんの完璧なスライダーを、その一振りで、王者の沈黙へと変えました!』

 木佐綾子の実況が、震え、そして絶叫へと変わる。大阪桐蔭のアルプスが、まるで真空に包まれたかのように静まり返った。

 北別府が初めて、マウンドで自分の右手を、得体の知れない裏切り者を見るように見つめた。

(……俺の『精密』が……力ずくで、理不尽に、壊されたのか……?)

 村上は、静まり返ったダイヤモンドを、一年生とは思えない「怪物」の威圧感を纏って一周した。

 ベンチに戻った村上を、一久がいつもの不気味な(しかしどこか誇らしげな)笑みで迎えた。

「……村上くん、すごいね。北別府さんの『精密機械』のメインスイッチを、バットで直接叩き折ったみたいだ。……お礼に、僕のポケットでデロデロになったアイス、全部あげるよ。ストローで吸って」

「……石井さん。アイスはいいです。……勝ってください。僕が奪ったこの一点を、死んでも守りきってくださいよ」

 一久の三白眼に、かつての不純な輝きを超えた、エースとしての暗い情熱が宿った。

「……分かってるよ。木佐さんの名前を、敗北の実況で汚させるわけにはいかないからね。……最高の『ハッタリ』、見せてくるよ」

 鳳凰大附属、一点差。

 絶対王者の秩序を切り裂いた、怪獣の咆哮。

 六回表。マウンドへ向かう石井一久の背中が、甲子園の夕暮れを、紫色の不吉な予感で染め上げていく。

 さあ、死刑宣告の時間だ。一久は、左指の爪を、深くボールに立てた。

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