王者の洗礼
大阪桐蔭のアルプススタンドから響き渡る重厚な吹奏楽。それは、宮崎からやってきた「鳳凰」の羽ばたきを、一瞬で地上に叩き落とすほどの質量を持った音の暴力だった。
二回戦。甲子園の空気は、前戦のサヨナラ勝ちという浮ついた熱狂を、一瞬にして「王者の威圧」で塗り替えた。
マウンドに立つ北別府。その投球練習は、もはや無機質な芸術だった。
アウトロー、インハイ。白球は物理法則をトレースするように、捕手の構えたミットから一ミリの狂いもなく収まっていく。
「……藤岡さん。あの北別府さんって人、僕の計算だと、心臓の鼓動までメトロノームで管理してるみたい。……僕の『デタラメ』、あの精密な箱の中に詰め込まれたら、ゴミ箱行きになっちゃうかもしれません」
ベンチでポカリスエットを啜りながら、一久が珍しく眉根を寄せて呟く。
「一久、弱気になるな。……黒田、お前の百四十六キロで、あの冷徹なリズムを力ずくでブチ壊してこい。ハッタリの前に、まずは『暴力』が必要だ!」
先発の黒田は、鼻息も荒く聖地のマウンドへと突進した。
唸りを上げる剛球。だが、桐蔭打線は微動だにしない。低めの誘いを石像のように見送り、甘く入った瞬間、そのバットは獲物を仕留める大蛇のようにしなった。黒田の「剛」は、桐蔭の圧倒的な「理」に、じわじわと解体されていく。
一方、鳳凰大打線もまた、北別府という名の「迷宮」に閉じ込められていた。村上宗隆が打席に入っても、北別府の瞳には一切の揺らぎがない。内角のシュートでえぐり、外角のスライダーで消す。村上のフルスイングが虚空を切り裂くたび、スタジアムに絶対王者の優位を告げる溜息が漏れた。
「……一久さん。あのピッチャー、石を投げても、空中で『正解』に書き換えられそうです」
松坂大輔が、次打者席で震えながら、救いを求めるように一久を見た。
「……大輔くん。あれはね、毎日同じ種類のアイスを、決まった角度と速度で食べ続けた聖人にしかできない芸当だよ。……ジャンクフードで育った僕らには、一生かかっても到達できない『退屈な完璧』さ」
四回終了、零対二。大阪桐蔭が、死神の首を真綿で締めるようにリードを広げる。
木佐綾子が、実況席でマイクを握る手に力を込めた。
『苦しい展開です、鳳凰大附属。絶対王者・大阪桐蔭、北別府くんの冷徹な支配の前に、自慢の打線が繋がりません。……ですが、まだ物語は半分。鳳凰の翼は、まだ折れてはいません!』
ベンチの端。稲尾和久がレジ袋から、不吉なほど濃い匂いのする「浪速の(自称)」お好み焼き味のポテトチップスを取り出した。
「……ふふ。一久くん。黒田くんの『情熱』が、王者の『冷気』に凍らされてしまったね。……そろそろ、君の『ぬるま湯』のような、全データを無効化する不純物が必要なんじゃないかな?」
一久はゆっくりと立ち上がり、グラブの革の匂いを深く嗅いだ。
「……稲尾さん。冷たいお好み焼きは、アイスよりも救いがない食べ物ですよ。……僕が、この完璧に冷え切った試合を、ドロドロに溶かして、不快な熱帯夜に変えてきます」
五回表、無死一塁。
黒田に代わって、死神・石井一久が、ついに大阪桐蔭の喉元へと歩み寄る。
精密機械・北別府という「完璧な正解」に対し、石井一久という「最凶の嘘」が、牙を剥く。
「……木佐さん。よく見てて。王者の箱が、今からぐにゃぐにゃに溶けるから」
一久が放送席へ、獲物を定めるような冷たい視線を送った。
甲子園の魔物が、退屈な正解に飽き飽きして、再び喉を鳴らし始めた。




