鳳凰、夏の空へ羽ばたく
延長十回裏、二死二塁。
阪神甲子園球場を支配していたのは、数万人の静寂と、マウンドの菅野から放たれる圧倒的な威圧感だった。菅野の瞳には、一切の妥協も、一点の曇りもない。
放たれた一五一キロの「正解」が、一久の胸元を、火を噴くような勢いで襲う。
一久はバットを振らなかった。――ストライク。
ミットの乾いた音を背に、一久はバットの重心を確かめるように、一度だけ、深く、甘い潮風を吸い込んだ。
(……菅野さん。あなたの球は、本当に、残酷なほど綺麗だ。……でも、僕には聞こえる。バックネットの向こう側から、僕の名前を、世界で一番大きな声で呼ぼうとしている声が。その声を、僕は一ミリも汚させたくないんだ)
運命の三球目。
菅野が、この試合のすべてを込めて投じた、渾身の外角スライダー。
一久は、バニラアイスを銀のスプーンで優しく掬い取るような、柔らかく、それでいて一切の迷いがない鋭いスイングを見せた。
カツォォォンッ!
澄み切った金属音が、銀傘に反響し、夏の空へと突き抜けた。
打球は、相模の「正解」を嘲笑うように、前進守備の外野手の頭上を越え、真っ青な芝生の上で歓喜のダンスを踊った。
二塁ランナー、松坂大輔。かつて「名前に怯えていた少年」は今、地を這うような猛走で、甲子園の黒土を蹴り飛ばし、ホームへと頭から滑り込む。
「セーフ! サヨナラ――ッ!」
『決まったぁぁぁ! サヨナラ! 鳳凰大附属、開幕戦の死闘を制しました! 打ったのは、エース――石井一久くんです!』
木佐綾子の声が、ついに決壊した涙で詰まった。
『……一久くん。あなたが約束した通り、今、甲子園の空に、あなたの名前が響いています……!』
一塁ベースを駆け抜けた一久は、派手なガッツポーズも見せず、ただ静かに、膝をつく菅野を見つめた。
整列の際、菅野は、一久のまだ熱を帯びた左手を、握りつぶさんばかりに強く握りしめた。
「……石井。お前の『デタラメ』に、俺の『完璧』は届かなかった。……上まで行け。お前に負けたんだから、お前は優勝しなきゃいけないんだ」
「……菅野さん。優勝なんて、僕には似合わない約束はできませんけど……アイスの食べ過ぎで、胃が痛くて投げられなくなるまでは、腕を振ってみますよ」
夕暮れに染まる甲子園。校歌が流れる中、一久と木佐綾子の視線が、一瞬だけ、誰にも邪魔されない空気の中で重なった。
かつての「憧れの先輩」と「やる気のない後輩」は、今、同じ運命の盤面で戦う「最高の戦友」として、真夏の頂点を射抜いていた。
ベンチの端。稲尾和久が、空になったレジ袋をゆっくりと丸めて、慈悲深い笑みを浮かべた。
「……おめでとう、一久くん。君の『不純な動機』が、今、この国すべての『純粋な憧れ』に書き換えられる音がしたよ。……さあ、次の嘘へ行こうか」
鳳凰大附属、二回戦進出。
死神の鎌は、今、聖地の魔物を刈り取り、日本中の「名前」を震撼させる旅へと加速する。
一久の隣には、もう、新しいバニラアイスが用意されていた。




