ゼロの臨界
銀傘の下、数万人の観衆が発する熱気は、逃げ場を失い、マウンドの一久をじりじりと焼き続けていた。だが、一久は、その極限の状況下でさえ、甲子園の浜風を「味」として感知し始めていた。
「……黒田さん。風が、完熟したバニラと……少しだけ鉄っぽい匂いに変わりました。今投げれば、あそこのバッター、心臓がアイスみたいに冷えて空振りしますよ」
マウンドに集まった鳳凰大の内野陣に、一久が虚空を見つめながら囁く。
「一久、お前の脳みそは夏バテで溶けたか! ……だが、風はお前を呼んでる。……いくぞ、死神。お前のデタラメを、相模の魂に刻みつけてやれ」
一久はセットポジションから、骨が軋むほど深く体を捻った。
放たれた一三〇キロのナックル。それは、甲子園という巨大な共鳴箱の中で、物理法則を嘲笑うように上下左右へ跳ね、最後は捕手・河西のミットを弾くほどの暴力的な変化を見せた。
「ストライク! 三振!」
相模の強打者が、獲物を見失った獣のように呆然と立ち尽くす。
ベンチで見守る東海大相模・菅野の三白眼が、カミソリのように鋭く細められた。
(……計算の範疇を超えている。……だが、あの石井という男、この絶望的な均衡を、心底楽しんでやがるのか)
八回裏、鳳凰大附属の攻撃。
菅野は一段ギアを上げ、一五〇キロの大台を連発。鳳凰大打線を「力」という名の絶対正義でねじ伏せていく。
二死走者なし。打席には、一年生・村上宗隆。
『さあ、運命の再対決です。相模の至宝・菅野くん対、鳳凰の若き化け物・村上くん!』
木佐綾子の声に、地鳴りのような拍手が重なり、スタジアムを震わせる。
一久はネクストバッターズサークルで、村上の広大な背中を見つめていた。
(……村上くん。君の純粋な『破壊』なら、あの精密な物理法則を粉砕できる。……木佐さんに、君の名前を最高の絶叫で叫ばせてあげて)
菅野が投じた、渾身のアウトロー、百五十二キロ。
村上はそれを、魂をもぎ取るような咆哮と共に捉えた。
ガキィィィィンッ!
打球は閃光となって左中間を襲う。だが、相模の外野陣が、文字通り泥にまみれたダイビングキャッチでそれを掴み取った。アウト。
あと数ミリ、あと一瞬の「運」の攻防だった。
村上は悔しげに土を噛み、ベンチへ戻る。一久とすれ違いざま、彼は火を噴くような視線で短く言った。
「……石井さん。僕が届かなかった分、守ってください。……十回、僕が必ず世界をひっくり返すんで」
「……十回か。……アイス、デロデロに溶けちゃうね。でも、約束するよ。君の打席まで、一秒も飽きさせない」
九回表をクロスファイアーで、九回裏を菅野の剛速球で、互いに一歩も譲らず。
零対零。
ベンチの端。稲尾和久が、レジ袋から不吉なほど鮮やかな「覚醒の(自称)」少し溶けたイチゴフロートを取り出した。
「……ふふ。一久くん。君の『嘘』と菅野くんの『真実』が、ついに境界線を失った。……さあ、十回表。君の前に、甲子園の本当の主がやってくるよ」
十回表、無死一、二塁。
マウンドに上がった一久。その背後に、夏の夕暮れが生んだ巨大な影が落ちる。
甲子園の魔物が、不敵に笑いながら、一久の左指にそっと触れた。
サヨナラへのカウントダウン、あるいは伝説の幕開け。
一久は、イチゴフロートのように赤く染まった夕陽を仰ぎ、静かに、そして誰よりも不純な決意で腕を振った。




