物理法則の崩壊
六回裏、阪神甲子園球場。
三塁側ベンチから、背番号「1」を背負った左腕が、まるで日曜の午後に散歩でもするような、ひどく間の抜けた顔でマウンドへと歩み寄る。
「……一久、頼んだぞ。僕の計算だと、ここを無失点で切り抜ければ、村上の一振りが菅野くんを捉える確率は48%まで跳ね上がる」
マウンドですれ違いざま、額の汗を拭いながら藤岡が囁く。
「藤岡さん、計算お疲れ様。48%か……。半分よりちょっと少ないなら、僕が適当に投げて、運を52%に増やしておくよ。……計算は、狂わせるためにあるんでしょ?」
一久はセットポジションに入った。
バッターボックスには、相模の強力クリーンナップ。藤岡の「計算された緻密な投球」に神経を逆撫でされていた彼らは、今度は「何を考えているのか全く読めない」一久の三白眼を見て、言いようのない生理的な不気味さを感じていた。
初球。一久は、菅野の150キロという「正解」の速度を見た直後の打者に対し、あえて85キロの超スローカーブを放った。
「……えっ?」
打者はバットを始動させるタイミングすら喪失し、球が河西のミットに収まるのを、まるでスローモーションの悪夢のように見送った。
『ストライク! 石井くん、初球は物理法則を疑うような超遅球です! 菅野くんの剛速球に目が慣れていた相模打線、完全に意識の虚を突かれました!』
木佐綾子の声が、浜風に乗って一久の耳を擽る。一久はマスクの奥で、小さく舌を出した。
(……木佐さん。僕、やっぱりこの場所が好きです。君の声が、世界で一番よく響くから。君の声を聞くためなら、僕はいくらでも『嘘』をつける)
二球目。内角ギリギリを抉るクロスファイアー。球速は135キロそこそこだが、リリースの直前まで「左腕が隠れる」成瀬譲りのハッキング技術により、打者には150キロの火の玉が飛んできたように錯覚させた。
追い込んだ三球目。一久は全神経を、アイスのスティックを握るような繊細さで左指に集中させた。
無回転のナックル。
甲子園特有の気まぐれな浜風を掴み、ベース直前で右に逃げ、左に揺れ、最後に奈落へ落ちるようにガクンと沈んだ。
「空振り三振!」
相模の強打者が、地面に膝をつき、信じられないものを見たように天を仰いだ。
ベンチに戻った一久を、松坂大輔が目を丸くして迎える。
「……一久さん。今のナックル、あそこの川の一番歪な石でも、あんなに不規則には跳ねませんよ」
「大輔くん。石は重いけど、空気は気まぐれだからね。……木佐さんの応援という最高の追い風があれば、白球だって踊りたくなるんだよ」
一方、マウンドの菅野は、一久の「デタラメな投球」という異物を見て、瞳の奥に蒼い闘志を燃やしていた。
「……面白いな。理屈でもデータでも計れないピッチャーか。なら、俺はもっと『完璧』を極めて、その混沌ごと捻じ伏せるまでだ」
七回表。菅野の投球はさらに研ぎ澄まされ、鳳凰大打線を漆黒の絶望で包み込む。しかし、一久の「謎」もまた、相模打線を完全な迷宮へと誘い込み、沈黙させ続けた。
ベンチの端。稲尾和久がレジ袋から、不吉なほどデロデロに「粘りの(自称)」溶けかけのアイスキャンディーを取り出した。
「……ふふ。一久くん。君の『不純』な投球が、菅野くんの『純粋』なプライドを削り始めた。美しき正解ほど、一度のバグを許容できないものだ」
稲尾は、静かに夕暮れが迫るスタジアムを見つめた。
「さあ、いよいよ魔物が目を覚ます、終盤の甲子園だ。君の嘘を、真実に変えてきなさい」
零対零。
物理法則を体現する菅野と、物理法則を裏切り続ける一久。
勝負の女神は、どちらの名前を、より甘く叫ぶのか。
「……木佐さん、あと二回。僕の名前を呼んで。最高に大きな声で」




