相模の巨人、鳳凰の計算
灼熱の太陽。銀傘に反射する光が、阪神甲子園球場を巨大な高熱の檻に変えていた。
鳳凰大附属、二度目の聖地。アルプススタンドから響く重低音のブラスバンドは、もはや「敗北の味」を想起させる警笛ではなく、新たな伝説の序曲として一久の鼓膜を震わせていた。
マウンドに立つ東海大相模のエース、菅野。
その投球練習を見守るだけで、鳳凰大ベンチには鉛のような沈黙が落ちた。百五十キロの剛球、そして意志を持つかのように打者の手元で鋭利に曲がるスライダー。それは一分の隙もない、野球という競技の「完成形」だった。
「……一久さん。あの菅野さんって人、ボールじゃなくて物理法則そのものを投げつけてきてます。……あんなの数式で解こうとしたら、僕の脳細胞がショートして爆発しちゃいますよ」
松坂大輔が、ベンチの隅でグラブを抱えながら、かつての自分のように震えている。
「……大輔くん、大丈夫。僕なんて、さっきから菅野さんの顔が『特売のバニラアイス』に見えてるから。……あんなに美味しそうな球、村上くんが一口で飲み干してくれるさ。僕らはその後片付けをするだけだよ」
一久はバニラ味のガムを噛み、クチャりと音を立てて不敵に笑った。
『夏の甲子園、開幕戦! 先発は鳳凰大附属、背番号10の藤岡くん! 対する東海大相模は、若き巨星・菅野くんです!』
木佐綾子の声が、真夏の空に凛と、そしてかつてない透明感を持って響き渡る。
今は放送席のプロとして、そして一久の「止まった時間」を共に動かす共犯者として、彼女は震える指先を膝の上で強く握りしめていた。
一回表。藤岡の立ち上がり。
彼に菅野のような暴威はない。だが藤岡は、打者の視線、グリップの握り、肺の膨らみから読み取る呼吸の乱れ、そのすべてをデータとして処理し、ミットという「解」を導き出す。外角一ミリの出し入れ。打者の脳内時計を狂わせるチェンジアップ。東の横綱、相模の打線が、まるで計算式に当てはめられたかのように凡退していく。
一方の菅野も、鳳凰大打線を漆黒の絶望で塗りつぶしていた。村上宗隆が打席に入ると、菅野の右腕は咆哮を上げる。内角を抉る百四十八キロ。村上の「阿蘇の噴火」のごときフルスイングを、正面から力でねじ伏せた。
五回終了、零対零。
藤岡はベンチに戻り、汗で曇った眼鏡を拭いながら、隣に座る一久を静かに見つめた。
「……一久。僕の計算だと、次の回が限界だ。相模の打線は、僕の『論理』を学習し始めている。……次は、君の『混沌』で、この盤面をひっくり返してくれ」
「藤岡さん、お疲れ様。計画通りに力尽きるなんて、最高にクールだよ。……あとは僕が、菅野さんの物理法則を、僕のナックルで『誤植』だらけに書き換えてくるよ」
ベンチの端。稲尾和久がレジ袋から、不吉なほど白く凍りついた「氷点下の(自称)」スポーツ飲料を取り出した。
「……ふふ。藤岡くんが完璧に『舞台』を整えた。……さあ、一久くん。君がマウンドに立った瞬間、この甲子園は、君と彼女だけの秘密の遊び場に変わるよ」
六回裏。鳳凰大附属のエース、石井一久が、陽炎の揺れるマウンドへと向かう。
菅野という「正解」に対する、石井一久という「嘘」。
「不純な動機」を左腕に詰め込んだ死神が、ついに天下の相模の喉元へと、その不気味に揺れる白球を突き立てる。
「……木佐さん。僕、今日、今までで一番アイスが美味しく感じる予感がするんだ」
一久が放送席へ小さくウィンクした(ように見えた)。
聖地の魔物が、歓喜に震えて




