燕の系譜、宮崎に舞う
九回裏、二死ランナーなし。
電光掲示板に刻まれた「鳳凰大 1ー0 都城」の文字が、夕闇に沈む球場の中で白く発光している。あと一人。アウト一つで、鳳凰大附属のハッタリは、聖地・甲子園の土を踏む権利という「真実」に変わる。
だが、スタジアムの空気は「終焉」を拒絶するように重く、湿っていた。
ネクストバッターズサークルから、都城の四番・山田がゆっくりと立ち上がる。その佇まいは静かな湖面のようだが、ひとたびバットを構えれば、その切っ先から立ち上る「殺気」が、マウンドまで物理的な圧となって押し寄せる。
「……黒田さん。あの山田さんって人。バットを持って立ってるだけなのに、あそこだけ背景に雨が降ってるみたい。……僕、濡れるの嫌だから、バニラの香りの傘を持ってきてもいいですか?」
一久がマウンドで、額から滴る汗を左腕で拭いながら、震える声で軽口を叩く。
「一久、ふざけるな! アイツの技術は精密機械を超えた『天性』だ。……一瞬でも邪念が揺らげば、村上のホームランを倍返しされるぞ。死ぬ気で、そのデタラメを突き通せ!」
一久は、一度だけバックネット裏を仰ぎ見た。
木佐綾子が、マイクを両手で握りしめ、祈るような、あるいは自らもマウンドに立っているかのような峻烈な瞳で自分を見つめている。
(……木佐さん。ごめんね。最後くらいは『不純な動機で楽勝でした』って笑いたかったけど。……あんなに綺麗なスイングをする人と、今、このマウンドで殺し合えるなんて。……アイスを一口食べるのを忘れるくらい、ゾクゾクしてるんだ)
初球。本日最速の一三七キロを、右打者の内角へ。クロスファイアーが、薄闇を切り裂く閃光となって走る。
山田はそれを、皮膚をかすめるような紙一重でかわし、ファウルにした。金属音が止んでも、空気が激しく振動し続けている。
二球目。外角へ逃げるスラーブ。山田は軸を一切揺らさず、まるで見えていたかのようにその軌道をカットした。
(……怖いな。僕の『デタラメ』を、全部『正解』の答え合わせで返してくる。この人は、僕のハッタリが通じない唯一の人間だ)
一久の指先に、じわりと、鉄のような力がこもる。
三球目。運命の一投。
一久はセットポジションから、背骨が鳴るほどの深い捻りを入れた。背中を完全に相手に見せ、そこから左腕を、死神の鎌のようにしならせる。
放たれたのは、一三〇キロの高速ナックル。
だが、それは今までのそれとは決定的に違った。クロスファイアーの直球と同じ軌道から、ベース直前で突如として「意思」を持った生き物のように右へ左へ、狂ったように暴れ――最後に、奈落へ落ちるように沈んだ。
ブンッ。
山田のバットが、何もない空間を虚しく切り裂いた。
「ストライク! バッターアウト! 試合終了――ッ!」
その瞬間、宮崎の空に、千の鳳凰が咆哮したかのような地鳴りが響き渡った。
『勝ちました! 鳳凰大附属、悲願の初優勝! 石井くん、最後の打者・山田くんを三振に……空前絶後の、魂の三振に打ち取りました! 甲子園! 兵庫・甲子園一番乗りです!』
木佐綾子の絶叫が、歓喜の渦に包まれた球場に、溶けるような熱を持って響き渡る。
一久はマウンドで膝をつき、しばらく動けなかった。土の匂いと、自分の吐息の熱さ。これが、一点を守り抜いた「エース」の重みだった。
整列に向かう際、山田が一久の横を通り過ぎ、一瞬だけ足を止めた。
「……石井くん。君、すごいね。最後の一球、僕にはボールが、三つに分裂して見えたよ」
「……山田さん。僕、疲れました。もう一秒も投げられません。……甲子園、あなたの分まで、世界一高いバニラアイスを食べてきますよ。……お疲れ様です」
二人の握手を、ベンチの端で稲尾和久が、目尻に一筋の涙を浮かべて見守っていた。
彼がレジ袋から恭しく取り出したのは、「約束の(自称)」特大デコレーション・バニラアイス。
「……おめでとう、一久くん。君は今日、名前に怯える少年を殺し、名前をリスペクトに変える本物の怪物を産み落とした。……君のハッタリは、ついに神様の領域に届いたよ」
鳳凰大附属、甲子園出場決定。
一久と木佐、そして松坂、村上。
伝説の世代の夏は、ここから、その不純で、しかし誰よりも美しい「聖地」の物語へと突入する。
一久がマウンドの砂を一掴みし、ポケットにねじ込んだ。
甲子園のバニラアイスは、きっと、どんな高級店よりも冷たくて、甘いはずだ。




