肥後の怪童、静寂を切り裂く
六回裏、宮崎県営野球場。
陽炎の向こうに立つ山本由伸は、依然として一分の隙も見せていなかった。百五十三キロの咆哮、そして物理法則をあざ笑う精密なスプリット。鳳凰大のクリーンアップですら、自らの意志を剥奪され、バットを「振らされている」操り人形に過ぎなかった。
「……黒田さん。あの山本さんって人、どんどん手が伸びてきてませんか。もうすぐキャプテンの鼻先でボールを離しそう。……審判に『距離のハッキングです』って訴えに行きましょうか?」
ベンチでバニラアイスのカップを逆さまにし、最後の一滴をストローで吸い上げるように啜りながら、一久がぼやく。
「一久、黙ってろ。……だが、このままじゃ完封負けだ。誰か一人でも、アイツの完璧な『正解』を物理的に壊せる奴がいれば……」
その時、ベンチの奥から、地響きのような重い足音が響いた。
稲尾和久がレジ袋から、不吉なほど硬い「神の(自称)」雷おこしを取り出し、一人の新入生の背中を力強く叩いた。
「……村上くん。君の故郷、熊本の阿蘇山は、この程度の暑さで音を上げはしない。……その溶岩の火力を、このマウンドに叩きつけなさい」
『鳳凰大附属、代打を送ります――一年生、村上くん!』
木佐綾子の声に、スタジアムが息を呑むような沈黙に包まれた。
現れたのは、一年生という概念を拒絶するような厚みのある胸板と、獲物を食い殺す猛獣の眼光を持つ男、村上宗隆。彼は一歩一歩、宮崎の黒土に自身の存在を刻み込むように打席へ向かった。
マウンドの山本由伸の目が、初めて、狩人のように細まった。
(……なんだ、このプレッシャーは。空気が、こいつの存在だけで重く歪んでいる)
初球。山本が放った「警告」としての百五十キロを、村上は微動だにせず、ただその残像を冷徹に脳へトレースした。
二球目。山本の伝家の宝刀、カットボールが内角を強襲する。村上の腰が、落雷のような速度で回転した。
ブンッ!
空気が爆ぜる音がスタジアムを震わせた。打球は一瞬でバックネットを直撃するファウルとなったが、その破壊力に場内は騒然となる。
「……大輔くん、見て。あの村上くんって子、バットで宮崎の空気を丸ごと食べてる。……僕、あんな怖いスイング、マウンドで正対したらアイスを三つ同時に喉に詰まらせて現実逃避しちゃうよ」
「……僕なら、もう石を投げる気力すら奪われます」と松坂も戦慄を隠せない。
運命の三球目。
山本由伸は、本日、そしてこれまでの野球人生で一番の集中力を、右指の第一関節に込めた。「完璧」という名の神話を完成させるための、アウトローへの極限のスプリット。
だが、村上は、その神話の終わりを待っていた。
カキィィィィンッ!
打球音ではない。何かが「崩壊」した音だった。
高く、美しく、そして暴力的に上がった白球は、宮崎の空を突き破り、バックスクリーン中央を直撃した。
『入ったぁぁぁ! 先制! 代打、一年生の村上くん、山本くんの完璧な正解を、その一振りで粉砕しました!』
木佐綾子の実況が、もはや絶叫となって響き渡る。
ダイヤモンドを一周する村上。山本由伸は、初めてマウンドで無防備に天を仰ぎ、そして、清々しささえ感じさせる苦笑を浮かべた。
ベンチに戻った村上を、一久がいつもの不敵な(しかし少し震える)笑みで迎えた。
「……村上くん、すごいね。今の打球、あそこの木佐さんまで届きそうだったよ。……お礼に、僕の溶けかかったダブルバニラ、半分あげるね。あ、溶けてるからストローで飲んで」
「……石井さん。アイスはいいです。……勝ってください。僕が奪ったこの一点を、死んでも守ってくださいよ」
一久の三白眼に、かつての「不純」を超越した、漆黒の炎が灯った。
「……分かってるよ。木佐さんの名前を、敗北の実況で汚させるわけにはいかないからね。……バニラ、一人で全部食べるよ。最高に冷え切った、勝利の味をね」
鳳凰大附属、一点リード。
究極の右腕を打ち砕いた、怪獣の一振り。
試合は、死神と怪物が背負った「一点」を巡る、凄絶な終局へと加速していく。




