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石井一久物語  作者: 水前寺鯉太郎
2年生編

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黄金の右腕、混沌の左腕

 宮崎県営野球場。スタンドを埋め尽くす超満員の観衆。その喧騒さえも、マウンドに立つ二人の怪物が放つオーラによって、真空の中に閉じ込められたようだった。

 夏の甲子園、その最後の切符。

 

 都城高校の背番号「1」、山本由伸。そのフォームは精密な時計仕掛けのように無駄がなく、放たれる一球一球は、神が引いた糸のように真っ直ぐ、そして残酷にミットへ突き刺さる。

「……黒田さん。あの人の投げ方、もはや弓矢ですよ。……僕がバニラアイスのカップを一口開ける間に、あんな『正解』を三回も叩き込まれたら、こっちのハッタリが全部バレちゃいそう。……ちょっとズルくないですか?」

 一久はベンチで自分のグローブの紐を締め直しながら、相変わらず他人事のようなトーンで呟く。

「一久。ズルいんじゃない、あれが野球という競技の『究極』なんだ。……正直に言え。お前、怖くて逃げ出したいんだろ?」

「……怖いですよ。あんなに綺麗な球を見せられたら、僕のナックルが『僕なんて恥ずかしくて人前に出られません』って言って、途中で不登校になりそうです」

 そんな一久の震える(アイスの食べ過ぎによる)背中を、一年生エース候補・松坂大輔がそっと叩いた。

「一久さん。さっきネクストで山本さんのボールを近くで見ましたけど……あれ、石切りでも無理です。水面を突き抜けて、そのまま地殻まで沈んじゃいますよ」

「……だよね。よし、大輔くん。君が『石』で地面を這わせたなら、僕は『空気』を騙して、空を泳いでみせるよ」

 一回表、都城高校の攻撃。マウンドに上がった一久は、初球から「死神」のギアを全開にした。

 対する山本の投球は、鳳凰大附属打線を絶望の淵に突き落とした。百五十キロを超える、ミットを割るような直球。そして、打者の手前で文字通り「消える」スプリット。一久がマウンドで「嘘と術」を凝らして抑える中、山本は「力と美」で、球場の空気を支配していく。

『両投手、一歩も譲りません! 山本くんの、息を呑むほど完璧な投球! そして石井くんの、打者の時間感覚を狂わせ続ける魔球! 宮崎の夏、最後のマウンドは……まさに異次元の化かし合いです!』

 木佐綾子の声が、スタジアムの熱気を、さらに高純度なエネルギーへと昇華させる。彼女だけは確信していた。一久が今、かつて名前に怯えていた時とは違い、最強の「正解」を前にして、最高に「不純な喜び」を感じていることを。

 四回終了、零対零。

 一久はベンチに戻り、滴る汗を拭いながら、バックネット裏の放送席を一度だけ、不敵に仰ぎ見た。

(……木佐さん。見てて。あんなに隙のない山本さんから、世界で一番不純な動機……『君と一緒にアイスを食べる』という欲望だけで、勝利を毟り取ってみせるから)

 ベンチの端。稲尾和久がレジ袋から、不吉なほど研ぎ澄まされた青い「ラムネ」を取り出した。

「……ふふ。一久くん。君の『デタラメ』という毒が、山本くんの『完成された正解』という細胞を揺さぶり始めているね。完璧なものほど、一度の異音に弱いものだ」

 稲尾は、ラムネの栓を勢いよく押し下げた。弾ける泡。

「さあ、ここからが本当の『怪物』たちの対談だ。歴史を書き換えてきなさい」

 一久のクロスファイアーと、無重力のナックル。

 それが、山本の「完成された芸術」という牙城を崩しにかかる。

 宮崎の空に、今、既存の野球理論が崩壊する、美しい不協和音が鳴り響こうとしていた。

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