右腕の矜持
三回戦、第一試合。宮崎県営野球場。
アイビースタジアムを支配していたのは、宮崎の「今」を背負う戸郷と、「未来」への執念を燃やす黒田による、肺が焼けるような投げ合いだった。
一回裏。マウンドの黒田は、自らの存在証明をすべて白球に叩き込んでいた。一久が「謎」で惑わし、松坂が「地面」から這い上がる中、黒田だけは常に、鳳凰大附属の折れぬ「背骨」として直球を投げ続けてきた。
唸りを上げる百四十六キロ。王者のプライドを粉砕せんばかりの剛速球に、ウルスラの打者が振り遅れる。
「……黒田さん、今日は沸騰してますね。あんなに全力で腕を振って、明日の朝、肩から抜けて地面に落ちてたらどうするんでしょう。接着剤で、僕のバニラアイスと一緒に固めておきましょうか?」
ベンチでバニラアイスのカップを、彫刻でも作るように削りながら一久が呟く。
「一久、縁起でもないこと言うな! ……だが、黒田の気合は本物だ。戸郷という『本物の怪物』を前にして、アイツの闘争心がついに臨界点を超えたんだ」
対する聖心ウルスラの戸郷。
独特のアームアングルから放たれる直球は、球速以上の伸びと、物理法則を疑うような軌道で鳳凰大打線を制圧していた。一久はアイスを食べる手を不意に止め、戸郷のしなやかな右腕をじっと見つめた。
「……木佐さん。戸郷さんのあの腕。……カマキリが獲物を捕らえる一瞬みたい。……でも、リリースの一瞬だけ、すごく優しくボールを放してる。……触るか触らないかの、初恋みたいな『抜き』だ。……不思議だな」
マネージャー兼放送部の木佐綾子が、その言葉を震えるペンでノートに刻む。
「……一久くん、それ、ものすごく鋭いわ。戸郷くんのあの『抜き』の技術。黒田くんが『破壊の剛』なら、戸郷くんは『静寂の柔』。……このままだと、黒田くんのスタミナが、戸郷くんの呼吸に飲み込まれて削り取られるかもしれない」
四回終了、零対零。
黒田は百五十キロを目指すかのような気迫で投げ続ける。だが、戸郷の「底の見えない、静かなる投球」が、じわじわと鳳凰大附属の精神を侵食していく。
五回裏、一死二塁。
黒田の指先から、ほんの数ミリのキレが失われた瞬間。ウルスラはその「綻び」を見逃さなかった。三遊間を射抜くライナー。先制。
「……一点、か。……重いな。鉛を飲み込んだみたいだ」
ベンチに戻った黒田を、一久が乾いたタオルを持って出迎えた。
「黒田さん。一点くらい、僕が代打でポテンヒット打って返してあげますから。そんなに茹で上がって顔を真っ赤にしないでください。……茹でダコを甲子園に連れて行くのは、僕の審美眼が許しませんから」
「……お前なぁ。戸郷から一点取るのが、どれだけ絶望的なことか分かってんのか……!」
ベンチの端。稲尾和久がレジ袋から、不吉なほど糸を引く「粘りの(自称)」納豆最中を取り出した。
「……ふふ。黒田くん、よく投げている。君の熱が、戸郷くんを本気にさせた。……だが、一久くん。君はもう気づいているね? 戸郷くんのあの『完璧な抜き』にも、一瞬だけ、迷いの影が落ちるコースがあることを」
一久の三白眼が、スッと細く、冷酷な光を帯びた。
「……稲尾さん。僕、アイスを食べ終わったら……ちょっとだけ『名前の力』、ハッキングしてきてもいいですか? 僕の嘘が、あのカマキリの腕に通用するかどうか」
一点を追う鳳凰大附属。
剛腕・黒田が繋ぎ、熱を帯びたマウンド。
一久がそこへ、どのような「冷気」を注ぎ込み、戸郷という真実の怪物を「偽物のハッタリ」で攻略するのか。
聖地への扉が、不気味な音を立てて軋み始めた。
「……キャプテン、予備のアイス、冷凍庫に入れておいてください。……勝って、冷え冷えのを食べたいので」




