カリブの嵐
延長十回裏。宮崎県営野球場は、かつてない質量を持った地鳴りのような歓声に包まれていた。
『宮崎学園、ここで代打を送ります。背番号15、留学生のグリエルくん!』
木佐綾子のアナウンスが、戦慄に耐えかねて僅かに上ずった。
バッターボックスに入ったのは、彫刻のような筋肉を重厚な鎧のごとく纏った巨漢。彼が一度素振りをするたびに、空気が断末魔の悲鳴を上げ、砂埃が舞う。
「……黒田さん。あの人、バットじゃなくて樹齢百年の丸太を持ってませんか。腕の太さが、僕の折れそうな太ももより太いんですけど。……僕、今から急性腹痛で救急車を呼んでもいいですか?」
一久がマウンドで、本気で顔を引きつらせて後退りする。
「バカ言え! お前がさっき大輔に言っただろう。『向こう岸まで跳ね返せ』って。今度は、お前があのカリブの嵐を黙らせる番だ。行け、死神!」
一久は、深く、肺の奥が焼けるほど熱い息を吐き出した。
バックネット裏。木佐綾子が、祈るように両手でマイクを握りしめている。
(……木佐さん。あんな怪物が相手でも、僕が逃げたら、君の止まっていた時間はまた、絶望の中で凍りついちゃうかもしれない。……なら、僕は投げるよ。君の笑顔を守るために、世界で一番、性格の悪い球を)
初球。本日最速の百三十五キロ――成瀬の「隠し」を乗せた一投が、グリエルの内角低めを射貫いた。
ズバァァァァンッ!
グリエルは微動だにせず、猛禽類のような眼光で球を見送った。ストライク。だが、その巨漢は不敵に、白い歯を見せて笑った。
「……イシイ。イイボール。……デモ、次、打ツ。粉々ニスル」
二球目。一久は同じフォーム、同じ腕の振りから、重力をあざ笑うようなスローカーブを放った。百三十五キロの残像に囚われたグリエルの前で、白球は八十キロの超低速で、ゆったりと美しい弧を描く。
グリエルは、バキバキと筋肉を鳴らしながら強引にバットを止めた。ボール。
三球目。運命の分岐点。一久の左指に、じっとりと冷たい汗が滲む。
(……木佐さん。僕、やっぱりバニラアイスが食べたいです。……この嵐を終わらせて、君と二人で、金色の夕暮れの中で)
放たれたのは、本日一度も投じていなかった、一久の原点。
無回転の、ナックル。
グリエルのフルスイングが、甲子園予選の空を引き裂いた。
だが、そのバットが通過するコンマ数秒前、白球は磁石の同極同士が反発するように、宙で「ヒラリ」と跳ね上がった。
ボフッ。
空振り。三振。試合終了――!
『三振! 石井くん、カリブの怪物を三振に打ち取りました! 鳳凰大附属、二回戦突破! 延長十回の死闘、ついに……ついに決着です!』
木佐綾子の声が、堰を切ったような涙に濡れていた。
一久はマウンドで、真っ白になった意識のまま天を仰いだ。
整列に向かう途中、グリエルが一久に近づき、岩のような大きな手で彼の頭をくしゃくしゃに掻き回した。
「……イシイ。オマエ、マジデ、ナニ投ゲテルカ分カラナイ。物理、コワシテル。……マモノネ」
「……グリエルさん。あなたの方が、よっぽどジュラシック・パークから来た魔物ですよ。……あと、僕の髪、セットするの二十分かかるんだから、二度と触らないでください」
一久は憎まれ口を叩きながらも、その泥だらけの顔には、かつての「不純な動機」を燃料にして燃え上がる、本物のエースの誇りが宿っていた。
ベンチの端。稲尾和久がレジ袋から、不吉なほど輝く「最高級(自称)」の金箔入りバニラアイスを取り出した。
「……一久くん。君は今日、カリブの熱風を、宮崎の潮風で凍りつかせたね。神様も驚く、見事なペテンだったよ」
稲尾は静かに、黄金色に染まるスタジアムを見つめた。
「さあ、いよいよ夏が、本気で牙を剥いてきた。準備はいいかい?」
鳳凰大附属、三回戦へ。
死神、怪物、そして女神。
三人の奇妙な共犯者たちが、止まっていた季節を、全力で、そして最高に不純な情熱で駆け抜け始めた。
一久の口に広がるバニラの甘さは、昨日よりも、ずっと濃かった。




