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石井一久物語  作者: 水前寺鯉太郎
2年生編

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30/48

カリブの嵐

 延長十回裏。宮崎県営野球場は、かつてない質量を持った地鳴りのような歓声に包まれていた。

『宮崎学園、ここで代打を送ります。背番号15、留学生のグリエルくん!』

 木佐綾子のアナウンスが、戦慄に耐えかねて僅かに上ずった。

 バッターボックスに入ったのは、彫刻のような筋肉を重厚な鎧のごとく纏った巨漢。彼が一度素振りをするたびに、空気が断末魔の悲鳴を上げ、砂埃が舞う。

「……黒田さん。あの人、バットじゃなくて樹齢百年の丸太を持ってませんか。腕の太さが、僕の折れそうな太ももより太いんですけど。……僕、今から急性腹痛で救急車を呼んでもいいですか?」

 一久がマウンドで、本気で顔を引きつらせて後退りする。

「バカ言え! お前がさっき大輔に言っただろう。『向こう岸まで跳ね返せ』って。今度は、お前があのカリブの嵐を黙らせる番だ。行け、死神!」

 一久は、深く、肺の奥が焼けるほど熱い息を吐き出した。

 バックネット裏。木佐綾子が、祈るように両手でマイクを握りしめている。

(……木佐さん。あんな怪物が相手でも、僕が逃げたら、君の止まっていた時間はまた、絶望の中で凍りついちゃうかもしれない。……なら、僕は投げるよ。君の笑顔を守るために、世界で一番、性格の悪い球を)

 初球。本日最速の百三十五キロ――成瀬の「隠し」を乗せた一投が、グリエルの内角低めを射貫いた。

 ズバァァァァンッ!

 グリエルは微動だにせず、猛禽類のような眼光で球を見送った。ストライク。だが、その巨漢は不敵に、白い歯を見せて笑った。

「……イシイ。イイボール。……デモ、次、打ツ。粉々ニスル」

 二球目。一久は同じフォーム、同じ腕の振りから、重力をあざ笑うようなスローカーブを放った。百三十五キロの残像に囚われたグリエルの前で、白球は八十キロの超低速で、ゆったりと美しい弧を描く。

 グリエルは、バキバキと筋肉を鳴らしながら強引にバットを止めた。ボール。

 三球目。運命の分岐点。一久の左指に、じっとりと冷たい汗が滲む。

(……木佐さん。僕、やっぱりバニラアイスが食べたいです。……この嵐を終わらせて、君と二人で、金色の夕暮れの中で)

 放たれたのは、本日一度も投じていなかった、一久の原点。

 無回転の、ナックル。

 グリエルのフルスイングが、甲子園予選の空を引き裂いた。

 だが、そのバットが通過するコンマ数秒前、白球は磁石の同極同士が反発するように、宙で「ヒラリ」と跳ね上がった。

 ボフッ。

 空振り。三振。試合終了――!

『三振! 石井くん、カリブの怪物を三振に打ち取りました! 鳳凰大附属、二回戦突破! 延長十回の死闘、ついに……ついに決着です!』

 木佐綾子の声が、堰を切ったような涙に濡れていた。

 一久はマウンドで、真っ白になった意識のまま天を仰いだ。

 整列に向かう途中、グリエルが一久に近づき、岩のような大きな手で彼の頭をくしゃくしゃに掻き回した。

「……イシイ。オマエ、マジデ、ナニ投ゲテルカ分カラナイ。物理、コワシテル。……マモノネ」

「……グリエルさん。あなたの方が、よっぽどジュラシック・パークから来た魔物ですよ。……あと、僕の髪、セットするの二十分かかるんだから、二度と触らないでください」

 一久は憎まれ口を叩きながらも、その泥だらけの顔には、かつての「不純な動機」を燃料にして燃え上がる、本物のエースの誇りが宿っていた。

 ベンチの端。稲尾和久がレジ袋から、不吉なほど輝く「最高級(自称)」の金箔入りバニラアイスを取り出した。

「……一久くん。君は今日、カリブの熱風を、宮崎の潮風で凍りつかせたね。神様も驚く、見事なペテンだったよ」

 稲尾は静かに、黄金色に染まるスタジアムを見つめた。

「さあ、いよいよ夏が、本気で牙を剥いてきた。準備はいいかい?」

 鳳凰大附属、三回戦へ。

 死神、怪物、そして女神。

 三人の奇妙な共犯者たちが、止まっていた季節を、全力で、そして最高に不純な情熱で駆け抜け始めた。

 一久の口に広がるバニラの甘さは、昨日よりも、ずっと濃かった。

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