水面の記憶
延長十回表、宮崎県営野球場。
アイアンシェフのような精密さで鳳凰大打線を封じてきた成瀬も、粘りに粘る彼らの「泥臭い執念」の前に、ついにその防波堤に亀裂が生じていた。安打と四球、そして「死んでも進塁する」という河西らの意地が、二死満塁という火薬庫を作り上げた。
ここで、鳳凰大ベンチが動いた。
「……代打、松坂くん。……行きなさい」
稲尾和久の静かな声が、沸騰するスタジアムを切り裂いた。
『ここで代打、一年生の松坂大輔くんです! 投げてはアンダースローで好投を見せた未経験の怪物が、この土壇場、運命の打席に入ります!』
ざわめきが波のように広がる中、一久はネクストバッターズサークルで松坂の肩を抱き、耳元で囁いた。
「……大輔くん。あそこの成瀬さん、さっきから君の足元に、川原にあるような『一番綺麗な石』を投げようとしてるよ。……それをね、向こう岸の、あのバニラアイスの看板まで跳ね返してごらん」
「……一番、いい石。……はい。やってみます。石を遠くに飛ばすのだけは、僕、村で一番だったから」
松坂は、バットを短く持ち、地を這うような極限の低重心で構えた。それは、彼が今まで見てきた「川面の景色」そのものだった。
成瀬は、この「野球を知らぬ男」から漂う、殺気すら排除された無機質な威圧感に、生まれて初めて右指の震えを感じた。
(……なんだ、この構えは。ストライクゾーンが、泥の中に沈んで見えねえ!)
運命の一球。成瀬が絶望を振り払うように投じた、渾身の外角スライダー。
松坂の瞳が、一瞬で「石切り師」の冷徹なそれに変貌した。
(……あの球。水面を叩く、一番いい角度で入ってきた)
パキィィィィンッ!
バットを振るのではない。鋭く、最短距離で「水面を叩く」。
打球は弾丸のようなライナーとなって、名門の守備網を一瞬で射抜いた。飛びつく二塁手のグラブをあざ笑うように、白い球が右前へと抜けていく。
「……抜けたぁぁぁっ!」
三塁ランナーが生還。続いて主将・黒田も、巨体を激しく揺らしてホームへ滑り込んだ。
『タイムリー! 一年生、松坂くん! 野球未経験の彼が、この絶体絶命の聖域で、王者の喉元を完璧に射抜きました! 鳳凰大附属、ついに均衡を破った!』
一塁ベース上で、松坂は「え、僕、走っていいんですか?」という戸惑いの表情のまま立ち尽くしていた。
一久はネクストで静かに立ち上がり、放送席の木佐綾子に向かって、優雅にヘルメットを掲げてみせた。
「……よし。これで、あと三回は僕の名前を呼んでもらえる。最高のヒーローインタビュー、予約済みですよ、木佐さん」
ベンチに戻った松坂を、稲尾和久が音もなく、慈悲深い笑みで迎えた。
レジ袋の中には、半分溶けかかった「お祝いの(自称)」冷たい水ようかんが並んでいる。
「……ふふ。松坂くん。君の『面』を捉える感性は、一久くんの『理を壊す』感覚と補完し合っている。……さあ、一久くん。最後はお前が、この二点を、彼女の期待と共に守り抜きなさい」
二対零。延長十回裏。
一久は、松坂から受け取った「熱を帯びたボール」を握りしめ、マウンドへと向かった。
勝利まで、あとアウト三つ。
偽物の死神が、真実の頂点へと歩を進める。その背中には、宮崎の夕日が巨大な鳳凰の翼を描いていた。




