地を這う怪物対招き猫
宮崎県営野球場、午後一時。
蝉時雨がスタジアムの音響を飲み込み、マウンドの土はオーブンの底のように熱を帯びていた。鳳凰大附属の背番号「11」、松坂大輔は、その灼熱の頂に、おどおどしながらも踏みとどまっていた。
「……大輔くん。緊張しなくていいよ。マウンドの土は、君がいつも遊んでる川の砂利と同じだと思って。……最悪、バッターの足元に石を跳ねさせるみたいに投げちゃって」
一久がベンチから、冷えたスポーツドリンクを抱えながら適当な、しかし彼なりの真実を込めたアドバイスを飛ばす。
「一久さん、それボークどころか暴力ですよ! ……でも、やってみます。石切りなら、僕、誰にも負けたくないんです」
一回表、宮崎学園の攻撃。
松坂は、ユニフォームの膝が土を擦るほどの低重心から、右腕を「水面」を叩くように振り抜いた。
シュパッ。
百二十キロの白球。だがそれは、浜風を受け、水面を滑る石のようにベース直前で不規則に沈み、そして鋭く浮き上がった。宮崎学園の打者は、地面から湧き上がってくるような未知の軌道に、バットを空しく踊らせた。
(……なんだ、このピッチャー。球が地底から飛び出してきやがる!)
一方、宮崎学園の先発・成瀬の投球もまた、魔術の域に達していた。
ゆったりとした、一見すると隙だらけのフォーム。だが、ボールを放つ左腕が最後まで隠れ、打者の目には「突然、球が現れた」ように映る。一久はベンチの最前列で、その成瀬の左腕を、獲物を狙う蛇のように見つめていた。
「……黒田さん。あの成瀬さんって人。……左腕が、バニラアイスの底に隠した小さなスプーンみたいだ。いつ出てくるか分からないから、掬う準備ができない。……あれ、僕もやりたい。あれがあれば、木佐さんが僕を見失って、もっと僕を注視してくれるはずだ」
「お前の例えは相変わらず糖分過多だが、あの『出どころの隠し方』は、お前のクロスファイアーを完成させる最後のピースになるぞ」
試合は、両者譲らぬ凄絶な投手戦となった。
松坂は、野球の常識がないゆえに「配球」を無視し、ただ「石を切る」という感覚のみでワンシームを操り続けた。意図しない変化が、エリート打者たちの計算を次々と狂わせていく。
五回終了。零対零。
しかし、六回裏。成瀬の精密な術策の前に鳳凰大打線が沈黙し、焦りがチームを侵食し始める。松坂もまた、宮崎の猛暑と重圧に晒され、自慢のアンダースローが数センチずつ、致命的に浮き始めていた。
一死一、二塁。逆転の足音が聞こえる中、一久が伝令としてマウンドへ走った。
「……大輔くん。放送席の木佐さんが、さっきから君の名前を呼ぶ練習を……噛まずに言えるように何度も繰り返してるよ。……でもね、僕の名前の方が言い慣れてるみたいだから、そろそろ僕と交代しよっか?」
「一久さん、それ、全然励ましになってません! ただの嫉妬じゃないですか!」
松坂は汗まみれの顔で苦笑いしながらも、その瞳に、かつての臆病な少年にはなかった「石切り師」のプライドを宿した。
「……でも、あと一人。あと一人だけ、僕にこの『水面』を切らせてください。僕がマウンドを平らにしておかないと、一久さんが転んじゃいますから」
その時。放送席から、木佐綾子の澄み渡る声が、熱風を切り裂いて届いた。
『マウンドの松坂くん、正念場です! その低いリリースポイントから、勝利を……未来を掴み取れるか!』
ベンチの端で、稲尾和久が音もなくレジ袋を解いた。中には、不吉なほど白く凍りついた「凍結おしぼり」が入っている。
「……ふふ。一久くん。君が『交代』をちらつかせたことで、松坂くんの生存本能に火がついた。そして、成瀬くんの『隠された腕』を盗もうとする君の貪欲な目……。いよいよ、鳳凰の左腕が、真の意味で羽ばたく時が来たね」
宮崎の猛暑、百二十キロの「石切り魔球」。
そして、影の中で牙を研ぐ死神の解析。
鳳凰大附属、絶体絶命の危機で、怪物が静かにその「翼」を書き換えようとしていた。




