怪物の再来
鳳凰大附属高校、春。
校庭に舞う桜の花びらが、プレハブ校舎のペンキの剥げた壁を優しく隠していた。新入生勧誘期間。喧騒の中で一久は、松葉杖が取れたばかりの木佐綾子のカバンを左肩にひっかけ、部員募集のチラシを団扇代わりに仰いでいた。
「……一久くん。ほら、あの子。さっきからずっと、野球部の防球ネットを『未知の物体』を見るような目で眺めてるわよ」
木佐綾子が指差した先に、体格だけは超高校級、だがその立ち姿は生まれたての小鹿のようにおどおどした一年生が立っていた。
一久は、バニラアイスの店を探しに行くついでに、その巨体に声をかけた。
「……君。野球に興味があるの? 悪いことは言わない。今のうちにチェス部か、あるいは『昼寝同好会』にでも入りなよ。野球はね、指先が凍り、心臓がバクバクして、何よりアイスを味わう余裕すら奪われる、この世で最も非効率なスポーツだよ」
「……あ、あの。僕、松坂……松坂大輔って言います。名前のせいで、中学までずっと『怪物』って呼ばれるのが怖くて、帰宅部で……。でも、昨日の石井さんのピッチングを見て……」
一久の動きが、完全に停止した。
彼の背後に、一九九八年、夏の甲子園で全てをなぎ倒したあの「本物の怪物」の幻影が見えた気がした。
「……松坂……大輔? 君、百五十キロ投げられるの?」
「いえ、ソフトボール投げで二十メートルが限界です。……ルールも、四角いところを走ればいいことくらいしか知りません」
一久は、自分よりも一回り大きな松坂の肩を、ガシッと鷲掴みにした。
「……同志だ。君、今日から僕の弟子になりなさい」
「……え、弟子ですか?」
「いいかい。この鳳凰大附属という学校は、『名前が立派なら、世界は勝手にバグを起こす』という壮大なハッタリで成り立っているんだ。君のその名前は、世界で一番贅沢な凶器だ。僕がその使い方を教えてあげる」
そこへ、新キャプテンの剛腕・黒田と、精密機械・藤岡がやってきた。
「おい一久、サボってねえで勧誘しろ……って、なんだそのメンバー表の字面は! 松坂大輔……!? お前、ついに禁断の召喚術を使いやがったか!」
「黒田さん。彼、野球に関しては純度百パーセントのドシロウトです。でも、彼には『松坂』という名の重みがある。僕がナックルで打者の脳をバグらせた後に、彼がマウンドに立ち、やる気ゼロの百キロの放物線を投げれば、打者は勝手に『超高度なチェンジオブペース』だと勘違いして、自滅します」
藤岡が眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。
「……なるほど。一久、お前は松坂という『鏡』に自分のフォームを教えることで、自分の感覚を理論化しようとしているな。……お前にしては、驚くほど合理的な自己分析だ」
「いえ、単に彼と一緒にアイスの食べ歩きに行きたいだけです。一人より二人のほうが、お店を回る効率がいいですから」
木佐綾子が、クスクスと鈴を転がすように笑った。
「……いいじゃない。石井くんと松坂くん。二人の怪物が並んだら、放送席の私も、見たこともない物語が実況できる気がする」
その光景を、部室の屋根の上から稲尾和久が眺めていた。
レジ袋の中には、黄金色に輝く「怪物の素(自称)」のプロテインが入っている。
「……ふふ。一久くん。君が『教える』側に回った時、君の中のクロスファイアーは、理論を超えて真実になる。松坂大輔という器を得て、君はついに、自分だけの『石井一久』を完成させるんだよ」
鳳凰大附属、新チーム始動。
「名前だけの左腕」と「名前だけの右腕」。
史上最凶のハッタリ・コンビが、夏の甲子園へのリベンジを、バニラアイスの匂いと共に開始する。
聖地の魔物が、今、嬉しそうに目を覚まそうとしていた。




