止まった時計
二学期。九月の教室。
夏の陽光は、暴力的なまでの輝きを失い、今はただ、埃の舞う窓際をねっとりと焼き続けていた。
一久は、窓の外を眺めていた。宮崎県大会一回戦。ナックルが湿った空気に重く沈み、あのアナウンスが響く前にマウンドを降りたあの日から、彼の時計は止まったままだ。
「……一久。お前、いつまで抜け殻のフリをしてるんだ」
廊下から、引退したばかりの河西の声が飛ぶ。ユニフォームを着ていない彼は、どこか寂しげで、しかし以前より鋭い目をしていた。
「河西さん。……最近、バニラアイスが砂みたいな味がするんです。僕、もうただの『石井』に戻ったほうがいいのかもしれません」
「バカ言え。……それより、心の準備をしておけ。今日からお前の隣、埋まるぞ」
その時、引き戸が乾いた音を立てて開いた。
クラス中の視線が一点に集まる。入ってきたのは、松葉杖をつき、以前よりも少しだけ痩せた少女だった。
一久の心臓が、本日最速の一五〇キロ(体感)で跳ねた。
木佐綾子。放送席の窓越しに、自分を死神からヒーローに変えてくれた、あの女神。
事故、入院、そして留年。噂は聞いていたが、彼女が今、手の届く距離に立っている。
「今日からこのクラスでお世話になります。木佐綾子です。……よろしくお願いします」
彼女は、一久の隣の席にゆっくりと腰を下ろした。机に立てかけられた松葉杖が、カタンと冷たい音を立てる。
一久は、なんと声をかければいいか分からず、ただ無心で消しゴムのカスを練り続けていた。
「……石井くん。夏、負けちゃったんだね」
放課後の教室。夕焼けが、二人の机をオレンジ色の海に沈める。
木佐綾子の声は、スピーカーを通さない生身の響きを持っていた。だが、そこにはかつての凛とした透明感はなく、どこかひび割れた、繊細な寂しさが混ざっていた。
「……はい。僕、ダメですね。木佐さんがいないと、どこに投げていいか分からなくなって。ストライクゾーンが、宇宙の端っこみたいに遠く感じたんです」
「……私ね。ずっと怖かった。病院のベッドで、みんなが先に行っちゃうのが。……石井くんが甲子園で投げてるの、夢で見たよ。私、そこにはいなかったけど」
一粒の涙が、黒ずんだ木目調の机に落ちた。
一久は、黙って椅子を蹴って立ち上がった。
数分後。彼は、購買部で一番高い「ダブルのバニラアイス」を、溶けるのも構わず握りしめて戻ってきた。
「……綾子。これ、食べて」
木佐綾子が、驚いた顔で顔を上げた。名前を呼び捨てにされ、差し出されたアイスに戸惑っている。
「……教室内で飲食は禁止だよ。それに、敬語は……」
「いいんだ。僕、決めた。……綾子の時間が止まったなら、僕が追い越して、背負って、またあの場所まで連れて行く。……名前を呼んでもらうんじゃない。僕が、君を連れて行くんだ」
一久は溶けかけたアイスを一口、乱暴に頬張った。
甘い。脳が痺れるほど、暴力的に甘い。
「……味が、戻りました。綾子と食べるアイス、世界で一番うまいや」
木佐綾子は、一久のあまりの唐突さと、鼻の頭にクリームをつけた無様な真顔を見て、堪えきれずに小さく吹き出した。
「……変な人。……でも、ありがとう。一久くん」
その光景を、廊下の影から稲尾和久が眺めていた。
レジ袋の中には、かつて自分が使い古した、真っ黒に汚れた「復活のボール」が入っている。
「……一久くん。君の不純な恋が、ようやく『運命』という牙を持ったね。憧れを失い、守るべきものを得た時、投手の左腕には『魂』が宿る」
鳳凰大附属、石井一久。
止まった時計の針を、再び動かすための秋。
一久は、隣でアイスを口にする少女の松葉杖を見つめ、左手の指先に、かつてないほど強い力を込めた。
「……次は、ホームランも打つよ。君が実況する暇もないくらい、遠くまで飛ばすから」
「……勝ってから言って、一久くん」
夏の終わりを告げる風が、二人の席を優しく通り抜けていった。




