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石井一久物語  作者: 水前寺鯉太郎
1年生編

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24/48

止まった時計

 二学期。九月の教室。

 夏の陽光は、暴力的なまでの輝きを失い、今はただ、埃の舞う窓際をねっとりと焼き続けていた。

 一久は、窓の外を眺めていた。宮崎県大会一回戦。ナックルが湿った空気に重く沈み、あのアナウンスが響く前にマウンドを降りたあの日から、彼の時計は止まったままだ。

「……一久。お前、いつまで抜け殻のフリをしてるんだ」

 廊下から、引退したばかりの河西の声が飛ぶ。ユニフォームを着ていない彼は、どこか寂しげで、しかし以前より鋭い目をしていた。

「河西さん。……最近、バニラアイスが砂みたいな味がするんです。僕、もうただの『石井』に戻ったほうがいいのかもしれません」

「バカ言え。……それより、心の準備をしておけ。今日からお前の隣、埋まるぞ」

 その時、引き戸が乾いた音を立てて開いた。

 クラス中の視線が一点に集まる。入ってきたのは、松葉杖をつき、以前よりも少しだけ痩せた少女だった。

 一久の心臓が、本日最速の一五〇キロ(体感)で跳ねた。

 木佐綾子。放送席の窓越しに、自分を死神からヒーローに変えてくれた、あの女神。

 事故、入院、そして留年。噂は聞いていたが、彼女が今、手の届く距離に立っている。

「今日からこのクラスでお世話になります。木佐綾子です。……よろしくお願いします」

 彼女は、一久の隣の席にゆっくりと腰を下ろした。机に立てかけられた松葉杖が、カタンと冷たい音を立てる。

 一久は、なんと声をかければいいか分からず、ただ無心で消しゴムのカスを練り続けていた。

「……石井くん。夏、負けちゃったんだね」

 放課後の教室。夕焼けが、二人の机をオレンジ色の海に沈める。

 木佐綾子の声は、スピーカーを通さない生身の響きを持っていた。だが、そこにはかつての凛とした透明感はなく、どこかひび割れた、繊細な寂しさが混ざっていた。

「……はい。僕、ダメですね。木佐さんがいないと、どこに投げていいか分からなくなって。ストライクゾーンが、宇宙の端っこみたいに遠く感じたんです」

「……私ね。ずっと怖かった。病院のベッドで、みんなが先に行っちゃうのが。……石井くんが甲子園で投げてるの、夢で見たよ。私、そこにはいなかったけど」

 一粒の涙が、黒ずんだ木目調の机に落ちた。

 一久は、黙って椅子を蹴って立ち上がった。

 数分後。彼は、購買部で一番高い「ダブルのバニラアイス」を、溶けるのも構わず握りしめて戻ってきた。

「……綾子。これ、食べて」

 木佐綾子が、驚いた顔で顔を上げた。名前を呼び捨てにされ、差し出されたアイスに戸惑っている。

「……教室内で飲食は禁止だよ。それに、敬語は……」

「いいんだ。僕、決めた。……綾子の時間が止まったなら、僕が追い越して、背負って、またあの場所まで連れて行く。……名前を呼んでもらうんじゃない。僕が、君を連れて行くんだ」

 一久は溶けかけたアイスを一口、乱暴に頬張った。

 甘い。脳が痺れるほど、暴力的に甘い。

「……味が、戻りました。綾子と食べるアイス、世界で一番うまいや」

 木佐綾子は、一久のあまりの唐突さと、鼻の頭にクリームをつけた無様な真顔を見て、堪えきれずに小さく吹き出した。

「……変な人。……でも、ありがとう。一久くん」

 その光景を、廊下の影から稲尾和久が眺めていた。

 レジ袋の中には、かつて自分が使い古した、真っ黒に汚れた「復活のボール」が入っている。

「……一久くん。君の不純な恋が、ようやく『運命』という牙を持ったね。憧れを失い、守るべきものを得た時、投手の左腕には『魂』が宿る」

 鳳凰大附属、石井一久。

 止まった時計の針を、再び動かすための秋。

 一久は、隣でアイスを口にする少女の松葉杖を見つめ、左手の指先に、かつてないほど強い力を込めた。

「……次は、ホームランも打つよ。君が実況する暇もないくらい、遠くまで飛ばすから」

「……勝ってから言って、一久くん」

 夏の終わりを告げる風が、二人の席を優しく通り抜けていった。

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