鳳凰、聖地に散る
九回裏、二死満塁。
阪神甲子園球場の電光掲示板には、「嘉義農林 4ー2 鳳凰大」という無慈悲な現実が刻まれていた。
一打逆転サヨナラ。全観衆の視線が、九番、ピッチャー、石井一久に集中する。マウンドには完投目前の呉明捷。その瞳は、限界の向こう側にある「神聖な領域」に達し、静かな光を放っていた。
(……苦しい。酸素が足りない。バットが、何百キロもある鉄の棒みたいに重い。……早く終わらせて、帰ってバニラアイスを。……そう思っていたはずなのに)
一久は、血の滲んだ掌でバットを握りしめた。
これまでの彼なら、三振しても「木佐さんが名前を呼んでくれるから」と、逃げ道を確保していただろう。だが今、耳の奥に届いたのは、放送席から理性を振り絞って放たれた、悲鳴に近い叫びだった。
『……バッター、石井くん。彼が、鳳凰大附属の、そして、私たちの最後の希望です!』
木佐綾子が、アナウンサーとしての矜持をかなぐり捨て、一人の少女として一久に命じていた。「負けないで」と。
呉明捷、百六十球目。台湾の大地が咆哮したかのような、地を這う一五一キロの剛速球。
一久の意識が、真っ白に弾けた。
ガキィィィィンッ!
一久が、生涯で初めて「自分の意志」で、逃げずに振り切った打球。それはライナーとなってセンターへ突き刺さる――はずだった。
しかし、嘉義農林の中堅手が、野生の跳躍を見せ、白球をそのグラブに収めた。
「アウト! 試合終了!」
その瞬間、一久の、鳳凰大の、不純で純粋な「春」が終わった。
整列の列。隣に立つ呉明捷の手を、一久は無言で握った。
マメだらけで、岩のように硬く、熱い手。これが、海を越えてきた者の「執念」の正体だった。
「……呉さん。あなた、本当に……凄いです。……僕、完敗しました」
呉明捷は、不器用な日本語で、一久の泥だらけの肩を強く叩いた。
「……イシイ。アナタ、マモノ。コワイ。……マタ、ナツ、ココデ」
砂を拾う喧騒の中で、一久はただ一人、プレートのあったマウンドを凝視していた。
稲尾和久が、音もなく現れた。今日は、あのレジ袋を持っていない。
「……一久くん。アイスの味は、どうだい?」
「……まだ、食べてません。喉が焼けていて、味がしない気がするんです」
「……それが、敗北の味だよ。おめでとう、一久くん。君は今日、ようやく『名前だけの男の子』を卒業して、負けの重さを知る『野球選手』になったんだ」
一久は、ユニフォームの袖で目を乱暴に拭った。土のついた手で拭ったせいで、顔は黒く、無様に汚れた。だが、その汚れこそが、彼が聖地に刻んだ「本物」の証だった。
球場の出口。放送席から駆けつけてきた木佐綾子が、肩で息をしながら立っていた。
「……石井くん。お疲れ様でした。……凄かった。本当に、私、あなたの名前を呼べて幸せでした」
一久は、彼女の真っ直ぐな瞳を、正視できなかった。
「……木佐さん。僕、負けちゃいました。甲子園、案内したかったのに。勝って、一緒にアイス食べたかったのに」
「……夏があります。私、夏も、絶対にここであなたの名前を呼びたいです。……呼んで、いいですか?」
一久は、ゆっくりと顔を上げた。
その三白眼に宿っていたのは、脱力でも諦念でもない。
敗北という名の激辛な経験を噛み砕き、その熱を力に変えようとする、本物の怪物の「野心」だった。
「……もちろんです。その時は、最高にドラマチックな枕詞を、たくさん用意しておいてください」
一久の言葉に、木佐綾子は泣きながら、ひまわりのように笑った。
鳳凰大附属、春の終焉。
だが、石井一久の物語は、ここから加速する。
真夏のバニラアイスを、世界で一番甘くするために。
偽物の死神は、今、本物の英雄への道を、泥だらけの足で歩み始めた。




