緑の疾風、野生の咆哮
六回裏、阪神甲子園球場。
空に舞うトンビの羽ばたきに、「雲がバニラシェイクに見える」などという致命的な現実逃避をしていた一久の集中力は、嘉義農林の咆哮によって無残に引き裂かれた。
ギャギャォォォンッ!
一久が「天然」という名の安寧に浸っていた隙に、放たれた一二八キロの棒球。嘉農の強打者たちが、その「揺れぬ白球」を逃すはずもなかった。
タイヤル族の、そしてアミ族の俊足たちが、獲物を追い詰める猛獣のごとき躍動を見せる。白球は一瞬で芝生を切り裂き、外野の奥深くへと消えていった。
『……止まりません! 嘉義農林、野生の目覚め! 石井くん、マウンドで立ち尽くしたまま、嵐に飲み込まれています!』
放送席、木佐綾子の悲鳴が銀傘にこだまする。
三失点。逆転。なおも無死満塁。スコアボードの数字が、鳳凰大附属の「ハッタリ」を嘲笑うように塗り替えられていく。
「一久! 戻ってこい! お前、今何を考えてたんだ!」
タイムを要求した河西が、砂煙を上げてマウンドに突進してくる。
「キャプテン……。あっちの人たち、打つ時に『シャーー!』って吠えるんです。山賊みたいで怖いです。……あと、あの雲が美味しそうで……」
「雲を食うな! 野球をしろ! 木佐さんの前で、お前はこのまま野垂れ死ぬ気か!」
河西の怒号すら、呆然とした一久の脳を素通りしていく。
集中力が完全に霧散した。このまま、鳳凰大の夏は「面白い夢」として終わるのか――。
その時、ベンチの端で、稲尾和久が静かに立ち上がった。
彼はレジ袋から、不吉なほど真っ赤な袋――「激辛(自称)」の唐辛子スナックを取り出した。
「……一久くん。風を読んで飛ぶトンビは賢いけれど、嵐の中で生き残るのは、地に足をつけて牙を剥く獣だけだよ」
稲尾は、一久に向かってそのスナックを一粒、鋭い牽制球のような軌道で投げた。
一久は、飛んできたそれを反射的に口でキャッチし、奥歯で噛み砕いた。
刹那。
「……っ!!! あふいっ!! 辛い! 痛い! 脳が焼ける!! 木佐さぁぁぁん!!!」
痛覚という名の強制的な電気信号が、一久の眠っていた神経を一本残らず焼き切った。
涙が溢れ、鼻水が止まらない。だが、その滲んだ視界の先、バッターボックスに入る嘉義農林の主将・呉明捷の姿だけが、赤い殺気の輪郭を持って、一久の瞳に焼き付いた。
「……はぁ、はぁ、……キャプテン。……水、勝ったらバケツでください」
一久の背中から、黒い、ドロドロとしたオーラが立ち上る。
それはギアチェンジなどという綺麗なものではない。激辛に悶絶し、泣き叫び、しかし「彼女の前でこれ以上無様な姿は見せられない」という、最底辺の、しかし最強の生存本能だ。
「……来いよ、ジョニーさんじゃなくて、呉さん。……僕の名前を呼ぶ彼女の声を、これ以上汚させない」
伝説の呉明捷。
そして、激辛スナックで覚醒した、涙目の死神。
甲子園の魔物が、その異様な光景に歓喜の咆哮を上げた。
死刑宣告の再開だ。一久は、震える左指で、これ以上ないほど深く、ボールを爪で掴んだ。




