聖地の魔物と台湾の風
阪神甲子園球場。
銀傘が真夏の陽光を撥ね返し、五万人の視線がマウンドの背番号「1」に集中していた。だが、その当の本人、石井一久は、聖地の黒土をスパイクでいじりながら、とてつもなく場違いな心配をしていた。
「……キャプテン。ここ、広すぎませんか。宮崎の球場の三倍はある。……方向音痴の僕なら、マウンドに戻れなくなって迷子になります。足元にバニラのパン屑を撒いて、目印にしてもいいですか?」
「アホか! 聖地に何を撒く気だ! それより見ろ、相手の嘉義農林を。あの、すべてを背負ったような眼光を。……ありゃ、ただの高校生じゃねえぞ」
一塁側ベンチ。海を越えてやってきた「嘉農」の勇者たちは、静謐な、しかし爆発寸前の闘志を湛えていた。先発の呉明捷が投じる一球一球は、台湾の広大な大地を思わせる重みを持って、ミットに雷鳴を轟かせている。
一久は、バックネット裏の放送席を仰ぎ見た。
(……木佐さん。甲子園のユニフォーム姿、凛々しすぎて直視できない。……よし。今日は、彼女に『石井くん、甲子園でも歴史を作りました』って言わせるためだけに、僕の全部を使い切ろう)
一回表。嘉義農林の攻撃。
一久は挨拶代わりのナックルを、甲子園の浜風に放り込んだ。
――ボフッ。
風に乗り、球は空中で一度静止したかのように揺れ、打者の手元で右、左へと「逃走」した。嘉農の一番打者は、バットを振ることも叶わず、幽霊を見たような顔で見送った。
(……なんだ、この球は。重力も、気合も、すべてをあざ笑っている)
しかし、嘉農の執念は、一久の「脱力」をも飲み込もうとしていた。彼らは一久の魔球に対し、バットを「当てる」のではなく、己の肉体を「ぶつけにいく」ようなスイングで食らいついてくる。三回表、呉明捷自らが放った弾丸のような打球が一久の足元を抜け、センター前へ。
一久は、熱を帯びたグラウンドを追いかけながら、三塁側ベンチの端を見た。
稲尾和久が、レジ袋から「甲子園名物」のたこ焼きを取り出し、不敵に笑いながら口へ運んでいた。
「……一久くん。嘉農の選手たちは、負けられない理由を……民族の誇りを胸に海を越えてきた。君の『バニラアイスが食べたい』という不純な理由で、その魂の重みに勝てるかな?」
一久の目に、氷のような冷徹な光が宿った。
(……重みとか、誇りとか、よく分かりませんけど。僕がここで負けたら、彼女が、木佐さんが泣いてしまう。……それだけは、この宇宙で絶対に許せないことなんです)
五回裏、鳳凰大附属の攻撃。二死二塁。
一久は打席に入り、呉明捷が放つ一五〇キロ近い「剛球」を、逃げることなく真っ向から受け止めた。
ガキィィィィンッ!
詰まりながらも、一久は全力で、なりふり構わず一塁へ激走した。その姿は、英雄のそれではなく、ただひたすらに「約束を守ろうとする少年」のそれだった。
聖地に、木佐綾子の震えるアナウンスが響き渡る。
『一歩も引きません! 嘉義農林の呉くん、そして鳳凰大の石井くん! 両エースの、決して譲れない想いが、聖地で火花を散らしています!』
一久は、一塁ベースを駆け抜け、マウンドの呉明捷と視線を交わした。
「……呉さん。あなた、いい球を投げますね。……でも、僕の方が、彼女の声を聴きたい気持ちは、一ミリだけ強いですよ」
鳳凰大附属、甲子園初戦。
伝説のチームを相手に、石井一久という「不純な天才」が、歴史を塗り替える一投を。
聖地の魔物を味方につけた死神の、本当の「ハッタリ」が、今、ここから始まる




