鳳凰の咆哮
宮崎県営野球場、午後二時。
夏の陽炎がアスファルトを溶かし、マウンドには鳳凰大附属の「理」の象徴、背番号「10」の藤岡が立っていた。
「……藤岡さん。あっちのピッチャー、戸郷さん。腕の振りがムチというか、しなやかな大蛇みたいです。見てるだけでこっちの肩が脱臼しそうです。……僕、今から薬局にシップ買いに行ってきていいですか?」
ベンチで自分の細い肩を回しながら、一久が絶望的な顔で呟く。
「一久、お前は黙ってアイスの棒でも数えてろ。……戸郷が『剛』の暴風なら、俺は『理』の防風林だ。一歩も通させんよ」
試合は、県民すべての息を止めさせるような、峻烈な投手戦となった。
藤岡は精密機械のごときコントロールで聖心ウルスラの強打者たちの芯を外し続け、凡打の葬列を築く。対する戸郷は、唸りを上げる一四九キロの直球と、ベース付近で消えるフォークを武器に、鳳凰大打線を圧倒した。
五回終了。スコアボードには、重苦しい「0」が並ぶ。
六回裏、ウルスラの攻撃。藤岡のスタミナが限界を迎え、連打で一死二、三塁の絶体絶命の危機。
「藤岡、よく凌いだ。……あとは、火消しの王者に任せろ!」
河西の合図でマウンドへ上がった剛腕・黒田。彼は一五〇キロ近い直球だけでウルスラの主砲を力ずくでねじ伏せ、スタジアムが揺れるほどの歓声の中で、最大のピンチを無失点で切り抜けた。
試合が動いたのは、八回表。
ベンチで一久は、木佐綾子の「……ピッチャー、戸郷くん。奪三振!」という凛とした、しかしどこか酔いしれるようなアナウンスを聞いていた。
(……戸郷さんばかり褒められてる。ズルい。僕だって、その綺麗な声で、もっとドラマチックに呼ばれたいのに!)
代打で打席に送られた一久の目に、邪悪なまでの対抗心が宿った。
バットを極端に短く持ち、戸郷の放った一五一キロの火球に、ただ「当てに」いく。
ガキィィィィンッ!
詰まりながらも、執念だけで放たれた打球は、一塁線の絶妙な死角へ転がる。
一久は、バニラアイスの特売日に向けて猛ダッシュする主婦のような、なりふり構わぬ激走を見せた。一塁ベースへ向かって、泥の海へ飛び込むヘッドスライディング。
「セーフ!」
泥だらけの英雄。この内野安打を足がかりに、鳳凰大がスクイズで一点を先制する。
一対零。
運命の九回裏。
ベンチ裏で、稲尾和久が一久の細い背中を、強く、優しく叩いた。
「……一久くん。黒田の『剛』、藤岡の『理』。……最後は、君の正体不明の『謎』で、甲子園の切符を強奪してきなさい」
「稲尾さん。……甲子園に行けたら、木佐さんに『一緒にアイス食べませんか』って、マイクを通して言ってもいいですかね?」
「……勝ったら、僕が責任を持って許可しよう」
一久はゆっくりと、聖域のマウンドへ歩を進めた。
『九回裏、聖心ウルスラ学園の攻撃。ピッチャー、黒田くんに代わりまして――石井くん』
木佐綾子の声が、激しく震えていた。そこには喜びと、祈りと、そしてこの三日間で築き上げた「石井一久」という男への、絶対的な信頼が溢れていた。
一久は、バックネット裏の彼女に向かって、深く、深く一礼した。
相手はウルスラのクリーンアップ。
一久はセットポジションから、本日、最も「虚無」に近い表情で左腕をしならせた。
百三十キロ。球速だけなら女子プロ並みの直球。
だがそれは、戸郷の剛球に目が慣れていた打者の手元で、意思を持つ蛇のように外角へ鋭く、残酷に逃げ去った。
「空振り! 三振! 試合終了――!」
鳳凰大附属、創部以来初。悲願の甲子園出場。
一久はマウンドで膝から崩れ落ち、熱を帯びた土の匂いを嗅いだ。
歓喜に爆発するスタンド。号泣し、泥にまみれて崩れるウルスラの選手たち。その喧騒の中心で、一久は静かに顔を上げ、放送席を見上げた。
木佐綾子が、マイクを握りしめたまま、堰を切ったような大粒の涙を流して笑っていた。
『勝ちました! 鳳凰大附属、甲子園一番乗りです! ……ヒーローは、……ヒーローは、石井一久くんです!』
一久は泥だらけの顔を、真っ青な夏の空へと向けた。
かつて呪っていた「石井一久」という名前が、今は誇らしげに、宮崎の風に乗って響いている。
「……稲尾さん。甲子園のアイス、……何味でもいい。彼女と食べられたら、それが一番美味しいですよね」
鳳凰大附属、宮崎の頂点へ。
偽物の死神が、真実のヒーローへと成った瞬間。
石井一久の物語は、ついに灼熱の聖地――甲子園へと舞台を移す。
新しいバニラアイスの物語が、今、始まろうとしていた。




