鳳凰の落とし物、サヨナラの空へ
延長十回表。
鳳凰大附属の三本柱、その最後を託された一久は、日南学園の「剛」と「術」を、やる気のない牽制と、物理法則をあざ笑うナックルで完封した。
二対二。運命の十回裏、スタジアムの空気はもはや発火寸前の熱気に包まれていた。
マウンドには、依然として「魂のエース」ジョニー黒木が君臨していた。
百五十球を超えてなお、彼の直球は意思を持つ獣のように唸りを上げ、鳳凰大の打者をなぎ倒していく。
二死三塁。一打サヨナラ、あるいはさらなる地獄の延長へ。
バッターボックスへ向かったのは、九番、ピッチャー、石井一久。
「……一久、いいか。三振だけはするな。バットを投げろ、自分を投げろ! 木佐さんが、お前のその無様な姿を、一秒も逃さず見つめてるぞ!」
河西がベンチから身を乗り出して絶叫する。
一久はバットを杖のように肩に担ぎ、眠そうな三白眼で、燃え盛るようなマウンドの黒木を眺めた。
(……ジョニーさん、凄すぎる。あの人の周りだけ、熱気で空気が歪んで見える。あんな熱い球、僕には一生投げられないし、投げたくもないな)
ふと、バックネット裏の放送席を見る。
木佐綾子は両手を組み、マイクに向かうことすら忘れて一久を凝視していた。その瞳には、恐怖と期待と、そして名前の付けられない「祈り」が宿っていた。
(……あの表情、誰にも渡したくない。そのためには、ここで試合を終わらせて、早く静かな場所でバニラアイスを食べなきゃ)
黒木、百五十五球目。
全霊を込めた、内角を抉る「魂」のストレート。
一久は、バットを振ったのではなかった。ただ、あまりの熱圧に耐えかねて、反射的に腕を突き出しただけだった。
ポスッ。
金属音が響くはずの静寂の中で、あまりにも情けない、乾いた音が響いた。
打球は、やる気のない放物線を描いて、高く、高く上がった。内野と外野のちょうど真ん中。誰もいない、真空の聖域へと。
「落ちろ、落ちろ、落ちろぉぉぉッ!」
河西の、部員たちの、そして鳳凰大附属全生徒の呪詛に近い願いが、白い球に乗り移る。
日南の二塁手と中堅手が必死に追い縋るが、その球は一久のナックルの意志を継承しているかのように、風に乗ってひらりと、彼らのグラブを逃れた。
ポテン。
芝生の上で、球が弾んだ。三塁ランナーが絶叫と共にホームベースを駆け抜ける。
『落ちた! 落ちました! 九番、石井くん、執念のポテンヒット! 鳳凰大附属、サヨナラ勝ちです……!』
木佐綾子の声が、歓喜のあまり美しく裏返り、球場全体の喧騒に溶けていった。
一久は一塁ベースの手前で、精根尽き果てたようにバットを放り出した。
「……入った。……よし、アイスだ。バニラだ」
歓喜に沸き、自分に襲いかかってくるナイン。マウンドで泣き崩れるジョニー黒木。そのコントラストを背景に、一久はただ一人、静かに放送席へ向かって、少しだけ照れくさそうに手を振った。
ベンチに戻った一久に、稲尾和久が音もなく近づいた。
「……一久くん。今の打球、わざと芯を外して風に乗せたね? あの瞬間だけ、君は風を味方につけていた」
「稲尾さん。そんな高度なこと、僕にできるわけないじゃないですか。ただ、手が滑っただけです。握力、もうゼロですから」
「……ふふ。その『手が滑った』が、歴史という名のペテンを真実に変えるんだよ」
稲尾は静かに、黄金色に染まるグラウンドを見つめた。
「さあ、いよいよ決勝だ。宮崎の頂点が、君のその歪な指先を待っているよ」
稲尾はレジ袋から、少し形が崩れた「最高級(自称)」のソフトクリームを取り出し、一久に手渡した。
鳳凰大附属、決勝進出。
石井一久という「不純な怪物」が、ついに宮崎の頂へ、その泥だらけの足を掛けた。
一久はソフトクリームを頬張り、溶け出した甘さに目を細めた。
夏の終わりは、まだ、遠い。




