精密な静寂
六回裏、鳳凰大附属のベンチが、王者の猛攻を止めるべく動いた。
剛腕・黒田に代わってマウンドを託されたのは、右のサイドスロー・藤岡。
「……藤岡さん。あそこの牧さんって人、さっきから僕を『食べ頃のステーキ』を見る目で見てます。……怖いです、代わってください。僕、まだ食べられたくない」
一久の情けない懇願を、藤岡はクールな一瞥で粉砕した。
「一久。あいつらは黒田の力に酔い、お前のハッタリに苛立っている。……なら、俺はその過剰な熱を全部、大気中に逃がしてやるだけだ」
藤岡の投球は、精密極まる外科手術だった。ベースの角をミリ単位で削るシュートと、死角から入り込むスライダー。黒田の「剛」に目を奪われていた日大の「三連星」は、藤岡の「動く球」に芯を外され続け、苛立ちを凡打へと変えていった。
八回表、鳳凰大がジョニー黒木のわずかな隙を突き、死に物狂いで同点に追いつく。二対二。
九回裏。スタジアムのボルテージは、もはや計測不能な領域へと達していた。
『九回裏、宮崎日大の攻撃。ピッチャー、藤岡くんに代わりまして――石井くん』
木佐綾子の声が、夕暮れの球場に、祝詞のように響き渡る。
一久はマウンドのプレートを、恋文を綴るような丁寧さで踏み締めた。スタミナはすでに底をつき、指先は感覚を失いつつある。それでも、彼の背中には、死神のそれとは違う、不思議な「静謐」が漂っていた。
対するは、今日二打点を叩き出している四番・川上。
一久はセットポジションから、退屈な授業をやり過ごす欠伸のような、やる気のないモーションで腕を振った。
――ボフッ。
ナックル。ジョニー黒木の「魂の咆哮」とは真逆の、魂の抜け殻が宙を舞う。川上のバットが、何も存在しない空間を虚しく切り裂いた。
(……なんだ、この球は。重力も、気合も、すべてをあざ笑っているのか)
一久は一瞬だけ、バックネット裏の放送席へ視線を飛ばした。
木佐綾子が身を乗り出し、祈るようにマイクを握りしめている。
(……見ててください、木佐さん。昨日、練習で偶然見つけた『カッコいい僕』、今ここで披露しますから)
二球目。昨日、失投から生まれたあの「蛇」の感触を、脳内で静かに再現する。
放たれたのは、百三十キロの直球。だが、打者の手元でそれは意思を持った生き物のように、内角へ向かってグニャリと沈み込んだ。ムービングファストボール――「石井一久」というハッタリが、本物の牙を持った瞬間だった。
「……っ!?」
川上のバットは、ボールが「いたはずの虚像」の上を、力なく通り過ぎた。
「ストライクッ!」
最後は五番・小久保を、八十キロのスローカーブで「待ちぼうけ」にさせ、平凡なピッチャーゴロ。一久はそれを、バニラアイスのカップを扱うような手つきで一塁へ送り、九回を三者凡退で締めくくった。
延長戦突入。マウンドを降りる一久に、稲尾和久が音もなく近づいた。
「……一久くん。さっきのムービング。あれ、木佐さんへの『カッコつけたい』という邪念だけで投げたね?」
「稲尾さん。欲は、この世で一番純粋なエネルギーなんですよ。……さあ、勝ってアイスを食べに行きましょう」
「まだ終わってないよ! 延長戦だよ! むしろ今からが地獄だよ!」
河西の怒号を子守歌に、鳳凰大附属の快進撃は止まらない。
ジョニー黒木という「本物の魂」を前に、石井一久という「不純な天然」が、ついに決勝戦という聖域への扉を、その歪な指先でこじ開けようとしていた。
一久の口内には、あのレモンの酸っぱさが、まだ熱く残っていた。




