Episode1:死にたがり少女は海の底で微睡む
産まれ落ちたその場所は、私にとって地獄そのものだった。母の事は『お母様』と呼び父の事は『お父様』と呼び、姉の事は『百合お姉様』と呼ばされる世界。少しでも間違えば殴られ、蹴られ、殺されそうになる世界に私は産まれ落ちてきた。
「出来損ないのお前が何故…っ!!何故此処に居るのッッッ!!!」
「申し訳ございません…っ、お母様…っ!」
「何故お前が居て、百合が居ないのよッッッ!!!!!」
甲高い悲鳴を上げて私の髪を引っ張るその人は母と呼ぶには何処か足りず、…まるで、幼い子供の様に見えた。だがその人は紛れもない私の『母親』だった。
(……駆け落ち、ね……)
私が中学三年生の冬に、出来の良く甘やかされてきた姉────白石百合は恋人と駆け落ちして、姿を消した。それからこの地獄は拍車を増した。両親は私を姉そっくりに仕立て上げた。姿も喋り方も好きなものや嫌いなもの、その全てを。少しでも違えば叩き、合っていれば無表情でこちらを見て褒めもしない。
──────そこに、『愛』は無かった。
(…………狂ってる、こんな世界)
姉の代替品として『大切』にはされていた。けれど、そこにあるのは『愛』ではなく欲に塗れた汚い支配欲。かつて手からすり抜けていった『最愛の娘』を作り上げるための、醜く歪んだ感情。何よりも吐き気がしたのは、それを分かっていながら離れられなかった私自身だった。
─────でも、そんな生活も長くは続かなかった。
例え代替品として大切にされていても、人の心には限度がある。どうしても耐えられないものと言うのが、人にはある。いつからか私は、どうしようもない終わりを望むようになっていた。
(……いつか、…この海の底で終われたら。それは、どんなに………どんなに、幸福なのかな……)
春が来て、小鳥のさえずりを聞く度に。
夏が来て、友人達と海に潜る度に。
秋が来て、紅葉が散る度に。
冬が来て、雪が地面を白く染める度に。
─────私はいつだって、あの何よりも美しく寂しい海の底での終わりを望んでいた。
その日は、激しく雨が振っていた。ザァザァと雨が降りしきる中で、私は壊れた傘を差しながら砂浜を歩いていた。海に足が沈む一歩手前で止まると、灰色に染まり荒れた海を見つめる。
(……なんで、私…此処に来て…)
家に帰ろうとしていたのは覚えている。その途中、交差点の向こう側で─────美しい、黒が靡いていた。
(……あぁ、そうだ)
腰まで伸ばされた黒い髪。
薔薇のように明るい紅を宿した瞳。
家で見ていた時よりも楽しそうで、太陽のように眩しい笑顔。
──────その隣には、男の人が居た。
(………姉さんを、見つけたんだった)
姉さんは私を見向きもしなかった。きっと、覚えてすら居なかったのだろう。楽しそうに恋人と腕を組んだ姉さんは私の事なんて忘れて、通り過ぎていった。
(…………綺麗、だったな…)
三年ぶりにみた姉さんは、どうしようもなく綺麗で『自由に』見えた。それが、きっと…どうしようもなく羨ましくて。私を置いて一人であの地獄から逃げた姉さんが、憎らしくて。一人だけ惨めに、頑張って『約束』を守っていた私がバカらしくて。
─────全部、どうでも良くなった。
(……どれだけ頑張っても、所詮『私』は代替品でしか無かった)
勉強も運動も何もかもを、求められれば頑張った。どれだけ姉のようには成れないのだと思い知らされても、それでも。分からなければ必死で調べて、聞いて、理解して。出来なければ出来るようになるまで、何度も何度も努力をした。そこにはきっと、バカみたいに純真無垢な『期待』があった。
────いつか、きっと。
その『いつか』は何度裏切られた事だろう。
その『きっと』は、何度繰り返されてきた願い事だろう。
(…それが叶うことがない、なんて…分かりきっていたのに。それでも、その『いつか、きっと』を信じていた)
────『いつか、きっと』はもう来ない。
どうしようもなく、知っていた。目を逸らしていたそれを、あの美しい人とすれ違った瞬間に『理解』してしまった。自分がどれだけみっともなく、叶いもしない『約束』に縋り付いていたのかを。
(……きっと、これが物語なら。助けに来てくれる人が居たのかも。助けを求めたら、いつかは救われる。…あまりにも都合が良い、御伽噺)
─────でも、此処は物語ではないから。
どれだけ助けを求めても、願っても、縋ってみても。助けなんて、神様なんて、救世者なんて来なかった。イエス・キリストも聖母マリアも、クリミアの天使も存在しない。
(…ならば、誰が『私』を救ってくれる?)
誰が私を、理解してくれる?
誰が私を、愛してくれる?
(……ねぇ、もしもこの世に救いなんてものが存在しないなら)
─────…誰が、『私』を見てくれるの?
強く風が吹き、壊れた傘が何処かへ飛ばされる。雨粒が風に乗って、私の顔に叩きつけられる。時間が経つにつれ、雨に濡れていき重くなる身体。ピコン、と鞄から携帯の通知音が鳴る。見てみれば、お母様からメールが来ていた。そこには、『私』を想う言葉なんて一つもなくて。その瞬間、『誰か』に問い掛けたはずの、答えのなかった問題に答えらしきものが出た。
─────誰が私を理解できる?
そんなの、とっくにわかりきった答えだった。答えなんて、最初から一つしかない。
「………私だけだ」
『私』を理解できるのも、『私』を愛せるのも、『私』を救えるのも…全て『私』だけ。他者の考えなんて、誰にも理解できない。誰も私を救ってはくれなかった。手を差し伸べてはくれなかった。……ならば、救えるのは。信じられるのは、『私』しか居ないだろう。
(………どうせ、最初から何もなかったなら。最初から全てが、嘘と偽りに塗れていたものなら。信じたものなんて、最初から何も無かったのなら)
「……っ、はは……っ、…だったら、…もう…いいや」
(…全て、何もかもを終わらせてしまおう)
鳴り続ける携帯と鞄が砂浜に落ちて、軽い音を立てる。靴も脱がずに、制服のまま私は海に足を踏み入れる。海の中は冷たくて、でもその冷たさが私にとっては心地よかった。バシャバシャと音を立てながら海に入り、腹まで浸かると海の中へ潜っていく。
(………あぁ、綺麗……)
そこは、何処までも孤独な世界だった。
それは、何処までも真っ黒な世界だった。
何も見えなくて真っ黒な世界のなか、地面に背中がついた感覚がした。海の底に横たわるのなんて初めてで、少しだけ私は笑ってしまった。ゆらゆらと揺れる海藻や、何処から流れてきたか分からない木の枝や板。
そこは、確かに孤独だった。でも────
(………あぁ……っ、…これで、やっと…)
段々と息苦しくなり、がぽっ、と口に残っていた空気を吐き出す。遠のく意識のなかで、私は待ち侘びた『救い』が訪れた事に安堵し目を閉じる。
(やっと、私は…幸せになれる)
暗く深い、海の底。
神様の救済も届かないような暗い孤独な世界で、私は確かに笑っていた。生まれて初めて心からの嬉しさを『幸福』を、確かに私は感じていた。
暗く深い海の底。
神様の救済も届かないような場所。
孤独な世界のなかで。
──────聖女様!!!
誰かの声が聞こえた気がした。
「……っ、たぁ……」
私が目を覚ましたのは、明らかに海の底ではなかった。牢屋と呼ばれるような場所で、横たわる私を心配そうに見つめている男の人。
「お目覚めですか、聖女様」
「……………………は?」
────その出会いが、『私』を変えた。




