バイオリンにまつわる、もう一人のアントニオ
時代は1565年にまで遡る。
数年を経てカトリック教会や芸術家が論議し方針が決まった後世でバロック様式と呼ばれる芸術形式に寄り添う格式の高い楽器をと、東洋のシルクロードから伝わる楽器の特性を取り入れたリュートや大衆が求めたギター、貴族や教会が好んだビオラ・ダ・ブラッチョやビオラ・ダ、ガンバなどの弦楽器の製作する工房で新たな楽器が試作されお披露目される。ヴィオール。現代で言うバイオリンである。
ビオラ・ダ・ブラッチョよりも弦の数を減らし、より大きな音をもち多くの音が透明感のある音で出せる様に5度で調律され、ギターやリュートの比にならないなだらかな曲面を構成する事でメンテナンスのし易さと、木管楽器に近い演奏が出来る撥弦楽器となった。
数名の製作者の献身により誕生した楽器だが、後世に最初期の楽器を作った者として有名となったのはアンドレア・アマティ、僅か後にガスパロ・ダ・サロであろう。
さて。その一人に注目してみよう。
現在のイタリア、クレモナの地は神聖ローマ帝国、ミラノ公国の一都市であった。この街に工房を構える製作者の名はアンドレア・アマティが率いる集団である。
「試作が思いの外、評価されたぞ。今後この楽器類を中心に製作していく。」
60歳を超えたアンドレアは息子のアントニオ、ジローラモに楽器の製作補助を頼み、教会の求めに応じべく製作に勤しむ。
新商品と聞けば飛びつくのが商人の性なのか、噂は広まりモノは試しと購入希望が数件。
材料だけは今までの木材で充分賄えると、目処をつけ数名の弦楽器製作者も巻き込み1年で8挺を捌いた。
改めてではあるが、ビオラ・ダ・ブラッチョやビオラ・ダガンバの奏者が従来の楽器よりも音量はあり、はっきりとした音が鳴る楽器を弾いては音域ごとの楽器を求めると奏者を抱える作曲家もその楽器に応じた曲を世に放つ。
カトリック教会と対立するプロテスタント派のフランス国王からも製作依頼が届き、完成すれば直ぐに現金に変わる状況である。需要に応じきれない生産性を除けば楽器の船出は順風満帆であった。
1566年。アンドレアは後進を育てるべきだと郊外に大規模な工房を建てる。募集は出さず、作業性を高める為木工や造形を得意とする知人を雇う形で分担製作を始める。
必要な工具は洗練され設備も充実していくと、楽器を作りたいと他工房から入所してくる職人も増え、29歳になるアントニオはもちろん、5歳のジローラモも製作にまつわる作業を手伝っていた。
アントニオは製作の丁寧さも併せて鋭い観察眼を見せる。アンドレア・アマティを始めとする職人の作風から改良案を丁寧に詰めて行き、アンドレアは息子の気付きを他職人に伝えては楽器の改良を進めた。
ギターの様に角を合わせていた物から少し飛び出すオーバーハングを持たせる様になり、従来美しいとされていたC字の孔がより音量の出ると発見したf字孔へと変えてみたり。アルト音域の楽器は従来の「撥弦楽器」より名を取りヴィオラと呼ばれ、それより小さな楽器は「ヴィオラよりも小さな楽器」の意味でヴィオリーノと。低音域の楽器をバスヴィオロンと呼ばれる個々の名称を浸透させていくと、アマティ工房の楽器名称は国を超えて馳せる事となる。
3年も経てばアンドレアは粗加工した材料から年間16梃も作れるようになり、フランス国王からの製作依頼でも充分な品質で熟る様になった。
この頃には各国の貴族がお抱えの木工職人に模造品を作らせ始め、貴族による上流社会での認知も高まっていく。
1677年。弟のジローラモ・アマティもスクロール加工を一人でこなせる程に美的感覚と技術が身に付いた。数年もすれば兄と同じく楽器を完成まで出来る職人になるはずだと、アンドレアは工房の将来展望に安堵する。
それでも、今のところはでしか無い。国外ではミラノ公国の正統な後継者権をフランス王制が声を上げて以来、国境の小競り合いは続くと聞く。かつての様にこの地が血に染まる事が有っては工房の将来も幻にしかならぬ。
長く続いたフランス国王への継続納品を終える事を決意し、工房の全てをアントニオに任せて馬車を手配する。
父アンドレアが直訴に出て2ヶ月。工房を増築し新たな部門、楽弓工房が作られる。
元々は同じ場所で作っていたのだが、楽弓を専門に作りたい職人が増えた事から建屋を移した。
更に3ヶ月。アントニオは訪れる商人と貴族、教会の対応に明け暮れる。父と相談した訳では無いけれど、製作が遅れる事から週に2回のみ交渉の日を設ける。と、商人と協定を結ぶ事に成功する。
そして別の日、父から手紙が届く。内容は概ね合意、来年を以ってフランス国王への納品を終わりにする。フランス内の楽器工房を視察して戻る。と。
アントニオ・アマティはアンドレア不在の多忙の中、楽器の色々な形状による音質の傾向を日記と称してまとめてゆく。ビオラを中心に楽器の形状、f字孔の位置、側板の高さ、木理の方向、駒の素材と形状。「君、巡りめく奇跡」と日記の表書きを記した。
年も明けて雪の降る日に父は工房へ戻ってきた。移動による疲れは見えるものの元気だ。そして数日。
「商人が見えない日が増えたな。何かしたのか?」
「えぇ。協定を結びました。さすがに製作する時間が無ければ無駄足になりますよ?と説けば皆様押し並べて協調して頂けました。」
ほう。父のその一言でこの会話は終わり沈黙の中、
「それで長旅のフランスは如何でしたか?」
「我らは模造に手を焼いておる。せっかくの楽器を全部ばらしての。あと十数年は追いつくまいて。」
「それ以外は?」
「以外にも楽器は大きさの異なる物も数も揃えておった。あの国の事だ。豪華主義により小編成音楽も変わっていく。より多くの楽器を使った音楽に。な。」
アンドレアは赤ワインで口を濡らすとフランスでのあらましを息子に語る。
「フランス国王はミラノ公国を諦めていない。その意味が解るな?」
「また戦争ですか。」
「今も国境では争い続けておるよ。教会と新宗教の様にな。」
「そんな中をよく無事でしたね。」
一時間程そんな話をして、アンドレアは自室に篭る。アントニオも日記にそれとなく伝聞を記した。
小さな改革ではあるが、ヴィオーンの製作に木型を紙に写した型紙を導入し、材木に貼り付ける事でどんな職人でも外側は類似した物になる。
「これでどの職人も少しは心を穏やかに製作出来るだろう。」
そう独り言を呟くと変化した事として日記に綴る。短期間で幾つ変化させたのか。その過程で得た経験と思いの全てを残す事に決めた。
アントニオから見てジローラモは衝突の絶えない存在だった。父の技術を学んだにも関わらず、より良くするんだ!といつも呟き、一つとして同じパターンは使わない為、安定した物が作れない「堕ちたる職人」だと感じる。今日とて、父の紙型より大きめのヴィオリーノを作っては木材をただ減らす。楽器は売れなければ価値がないのだ。現に弟の作品は試作品で展示されたとしても買い叩かれている。
技術はそこそこあるだけに残念だ。
弟は私の歳より先に結婚した。相手は工房で働く者の妹だそうだ。
この宮殿と呼ばれる工房は、多くの職人が支えている。それぞれが一つの作業を極め、状況により別の仕事も覚えていく。
父の名声を借りた量産への仕組みは、貴族からの要望に応えるためには変えることの出来ないものだった。
1577年。父は永い眠りにつく。指先で確かめながら今までよりも慎重に進めていた姿が瞼に残るのみとなった。ジローラモをスクロールに配属させたのが良かったのか。父の小言はもう聞けない。
スクロールを確認する。渦巻き状の装飾の並ぶ棚の一部に書籍にある船舶の船首像の様なふざけた物があった。
犯人はやはりジローラモだった。工房を預かる者として熾烈に指導する事にし、兄弟仲はとても悪かった。
父はジローラモもスクロールも時々使った。直ぐに売れるものではなく、4挺は常に飾られていた。特に凹凸の多い意匠物はニスを塗る技量も求められた。
マスターメイドにも関わらず手間が多い為、普通の物よりもわずかに高価であ、売れない。
不良品として半値にしようかと思う頃、この一群を求める商人が現れる。船乗り達の娯楽として船首像を模した幸運の御守りは多い程良い。と、価格を気にしないで更に注文を置いていった。
船首像のスクロールは、ジローラモの独断場となった。
兄弟仲が回復する程の進展にはならなかったが、ジローラモは自分の居場所を海の男達と言う奇縁で手繰り寄せた。
1590年。クレモナの教会の司教が教皇となった。街が沸き立つ。平和のための音楽を。と、彼は貴族だけだった音楽を教会にも取り入れた。楽器は市民から見ても高価ではあるが、求められた。
クレモナの至る所で音は鳴り、街の外ので起こる宗教戦争など知らぬ楽園は春を満喫する。
1591年冬、ジローラモの家に男児が産まれる。名をアンドレーアと父の名をつけた。流行咳で僅か2週間と言う命、天に召された運命をジローラモはどれだけ呪っただろう。
1593年夏。我が家に待望の長女が生まれた。ヘリエッテ。良い名だろう?
1596年春。ジローラモの家に再び男児が産まれる。ニコロと名付けられ、工房をあげて祝福を行った。
1601年。流行咳はあれだけの祈祷と魔女の知恵を持ってしても、妻と娘を天へと連れ去った。私に残された物は僅かな資産と、途方もない工房の運営だけだった。滞納した市民税は弟から借用し、その担保に工房の経営権を譲った。
工房から払われる給金は、生活するには充分だが、不足の催促を終わらせるには足りない。
私は工房の隅で黙々と制作をする毎日に身を置いた。
楽器に貼られるラベルは、作製アマティ兄弟と記されたままに。




