アントニオを支えた女傑
名器ストラディバリの誕生に表立って現れない人物でありアントニオ・ストラディバリウスの才能を誰よりも深く理解していた存在。アントニオ初婚の相手であるフランチェスカ・フェラボスキと言う類稀なる人物について少し触れてみたいと思う。
伝わっている事と言えば、女帝と呼ばれていた事ぐらいだろうか。この事から想像するに、相当に知恵のある人物であったに違いないと私は考える。
当時の社会は女性の権利はとても小さく、子供でさえ小さな大人として働く事が普通であった時代。日本では徳川幕府4代目将軍、徳川家綱が治めていた頃である。
フランチェスカ・フェラボスキはパン職人の家に産まれた。家の外で遊ぶよりも家の中で他人の話を集める事を好む女の子だった。時折り他人の話から推測される有益な情報は父に伝え、生活は徐々にではあるが職人としての組織的地位の向上によって裕福な暮らしが出来る様になる。
幼いこの子の才能に父親は価値を見出す。
遠方の戦争の話、小麦が不作な地方の話、味の良い小麦の話、品質の良い塩の話、オリーブ油の産地の話。どれも仕事で欠かせない内容をフランチェスカが知らせてくれる。先日パン職人で作る職人会に仕入れ先の先見性の高さと品質の高さから若くして職人長に抜擢されるほど周囲からの信は厚かった。
それも娘の情報有っての事だと他の職人には語ることなく秘密のままに、過度なほどの愛娘家として日夜振る舞う。
フランチェスカが14歳のある日、
「もう父には伝える未来はないわ。教会の異端審問や魔女裁判に娘を差し出したくないでしょう?これからは私の為に今後を考えるの。」
と、言われてハッとする。娘とのやり取りは日常となっていたが、街に出入りする商人の取引内容や恋人達の喧嘩など街での出来事を把握している事、遠く離れた地の出来事ですら詳しく知る事が出来る娘は教会の教えから外れる異端なのだと。
この頃のフランチェスカは未来予知に近い精度で意識をした事象が視えていた。
脳が休む暇なく未来像を映しだす毎日の中で教会による迫害を受けずに私が私で居られる為にはどうすれば良いのか。見えた未来像を望まない事象を退け、より望ましい事象を手繰り寄せる為にフランチェスカは修道士としてこの地を訪れていたポキオロとやや強引な手段で結婚をする。
ポキオロの教会使命は技術や知識を蒐集し枢機卿含めたカトリック教会中枢に情報を修める事。この楽器と音楽の都市となったクレモナで正に職務を全うとしていた男である。
結婚生活は順調とは言えなかった。教会で見聞記録を長時間書く男は実に帰宅しない。未来視によって時折りいつ帰るのか把握してはこの男との軋轢を避ける術を身につけてゆく。
夫が帰宅する日は少しだけ贅沢な食材を用意し、会話も話題も尽きず、夫婦の勤めもお座なりにしない、傍目には教会の教えに沿う模範的な淑女。
誰が何をしているかまで見えてしまうフランチェスカにとってはこの男をこれ以上知る必要はなかったが、男にとって日を重ねる毎に不満を与えず我が行動を知り尽くすフランチェスカは得体の知れない不気味な存在に思えてならなかった。
ある日、男は名のある人を雇い妻の監視を依頼する。
私を何処かで監視しているのではないか、私以上に情報を集めるのは教会以外の組織に所属していて、私を差し置いて情報を集めているのではないか。と、自らの疑念を晴らす目的で手紙での連絡や報告を求めた。
日々教会に報告される手紙には、姿が確認出来る範囲では頻繁な外出もなく固定的な来客も無く疑わしき行動はない。
監視期間の終わりが近い頃にイザークと名乗り直接会ってみた。ポキオロの親友として訪ねてきたと。伝えた時もわざわざ飲み物を用意してくれた上で、
「夫のポキオロはほとんど家には居ませんよ。でも親友が訪ねてきたとお伝えしますわ。」
と、笑顔で見送ってくれた。とまで記載がある。
依頼していた者が監視報告は直接話したいと手紙の届け先に現れた。急遽その場所に向かい話を聞くとフランチェスカの様子に変わりはない事、しかし直接顔を合わせた後も監視されている事に気がついているかもしれない事、気になった事全てを話した上で変化のない監視を終わりにしたい。と、漏らす。
最も重要な事柄は彼女が教会にとって純心盲羊であるか羊頭悪邪であるか。日常に信徒から離れた行為はないが、まだ知らぬなにかがあるかもしれない。羊頭悪邪と断言は出来ないが注意する必要はある。と、内心の結論をポキオロは出した。
翌日。ポキオロはカトリック教会の異端審問官宛に書簡を出す。内容は、我が妻は異端と信徒の狭間で疑わしき事。早期に専務官の判断願いたい。と。
日は駆け抜けて年が明けようとする頃、教会にポキオロの望んだ訪問者が現れたとの知らせ。
先ず自身の魔女との関係性の疑いを晴らすためと、教会で潔白証書を作り異端審問官へ司祭から届けてもらう。後は案内を買ってでれば解決は早いだろう。
異端審問官はポキオロと会うことなく魔女の証を見つける為にフランチェスカの住む家に訪れる。
この地の教会に赴任した神父だと挨拶を交わし日頃の悩み、特に夫であるポキオロについて話を聞く。手紙にあった疑いを表情には出さない様にしつつちらりと部屋を見回しても生活感に溢れ装飾品は見られない。今日は良いだろう。
さりとて大きな不満も持っていない話をやんわりと切り上げると、何か思う事があれば私に是非に。と席を立つ。
2ヶ月ほど訪問を繰り返すものの進展はなく身体的特徴から証を見つけるべきかと準備を進めると対象者と会う事が出来ない。強引ではあるがフランチェスカが魔女の疑いがあると父親に言い聞かせ検証の機会を作らせた。
2日後母親立ち会いの下、自宅の一室にて服を脱がせては魔女の証とする黒子やシミ等の模様は無い。
「娘は。」
訪問者は縋るような声に顔を合わせず
「かの者の疑いは無実である。この後も純真な信徒である為の祈りを。」
服を整えたフランチェスカは、
「どれだけの欺瞞と嫉妬があって、私を魔女ではないかと駆り立てたのでしょうね。」
と述べるだけだった。
「そう言えばポキオロが婚姻解消の証明書も教会に届けていましたが、ご存知ですか?」
一様に驚いた顔をする女性二人は顔を見合わせた。
「余計な事でしたか?主要な調査は完了しましたのでなにかあれば教会まで。」
彼女の一時の難は去った。されどいつ再び魔女と認定されるかも知れない恐怖をフランチェスカはこれからもずっと胸に抱き続けるだろう。
異端審問官は司祭に経緯を伝えると次の指令の支度を始める。
フランチェスカは今まで以上に慎重に自身の特異性を使う事にした。具体的には身を守るにはどうすれば良いのかを重点に据える事にしたのだ。
1666年のある日、とある男性像が脳裏に浮かぶ。その男は非凡な観察力と類稀なる器用さを併せ持ち、クレモナのアマティ工房で腕を磨き将来的には名工となるだけの実力を得る者。
数日に一度、その男の事を考えると見えてきた事もある。名をアントニオ・ストラディバリウスと知る。多忙と言われるニコロ・アマティから直接の指導を受けている。私が彼と寄り添わなければアマティ家の娘と結婚する。彼の信仰心は穏やかである。そして女性との肉体関係はまだ一切ない。
フランチェスカは2度目の婚姻を意識させた彼を抱え込む為に、如何に稀有な存在なのか。永遠の富みを約束する男性だと、両親も巻き込み奔走する。家族に、街人に、全ての準備が整い後はその男が馬車に乗りクレモナに到着するのを待つだけとなり、1667年7月4日。天候は晴れ。
一台の馬車はアマティ工房を目指しゆるやかに走る。街の中心部に差し掛かろうとする頃、人だかりに巻き込まれて馬の脚を止める。
何事かとアントニオが馬車から降りて人々に聞くと、「結婚式があるらしい。婿を驚かせたくて集まっている」とのこと。
まさか自分の事だと思わないアントニオはその集団に参加した。
「婿が現れたぞ」
どこからともなく男性の声がする。それに伴い集団の熱狂的な空気は更に熱くなる。
ドレスを纏ったやや豊満な女性がアントニオの腕を捕まえた。
「みんな、私の相棒のアントニオよ」
何が起きているのか理解出来ない男の表情をよそに、二人は祝福と背中を押されて集団から抜ける。目の前には小さな教会。
アントニオ・ストラディバリウスはフランチェスカ・フェラボスキと唐突に結婚する事となった。
父の資産を元手にガルバルディ通りの集合住宅2階に居をかまえる。ここからアマティ工房に通い、泊まりがけの日が有っても良い。お互いの心配は不用で出来る事を十全に熟していく事。夫婦の誓いとすれば些かおかしな部分はあるが特に不便をもたらす事柄ではなく誓いはアントニオに了承された。
仕事面はニコロ・アマティによって。私生活はフランチェスカによってアントニオ・ストラディバリウスと言う職人は不足していた事柄を補われ磨かれる。
いつ帰宅できるかわからない毎日、アントニオはアマティ家の工房の泊まり込み、休みの合間に帰宅している。ニコロが教えない大体の彼が欲しい知識は知っている。彼の帰宅する日や時間もお見通しだった。
「仕上げは何故赤色にするのか」「赤い色に木を染めるには」「柔らかい木材を部分的に硬くするには」「より硬い樫では駄目なのか」「パーフリンクの黒色はどうやって染まるのか」「隙間の空くパーフリンクを綺麗に見せるには」など。
もっとも、応えを知らない質問もいくつかありその時は「誰も知らない事なのよ」と流した。彼の私の知恵への欲求は止まらない。
その情報への対価は主に肉体を重ねる事で、子種を沢山注いでもらった。その甲斐もあって男2人、女3人も生まれる事になるわ。あぁ、これはまだ先の事だけれどね。
彼の作品制作姿勢にはとても誇らしく思う。全身全霊を注いで、より素晴らしい物をと追求している。ただ、その追求に道具や素材が追いついていない事が近い将来気がついてしまう。
その未来を避けるために。
私のすべき事は整える事。彼が何不自由なく没頭できる為の全てを。その支えになる不可視の手を。技術を遺憾なく発揮できる道具を。理想を実現できうる木材を。些事に囚われず全力を投げ得るだけの空間を。そして、いつまでも続く仕組みを。
父から資産を少し譲り受けて、かの者の為の全てを手配する。刃物は海の遥か隔てた東洋の国から。木材は彼の親・親戚の集う場所から。支える手は独立した腕の確かな者と彼との子を。いつか必要になる数多の物もこの際に手配した。
そして最後に、サン・ドミニコ広場前に面した衣服商の持て余した部屋をニコロ・アマティ氏を呼び付けて楽器工房にする了承を得る。
全ては未来視のままに。
彼と仲間達が完成させた楽器を私と娘達が仲介して取引を成立させる。
新しい楽器が届くたびに絹織物の袋に収めて陳列する。
とはいえ知名度が低く、家具の修理や他弦楽器も要望があればアントニオが制作し応えた。
転機は彼の師匠たるニコロ・アマティが天に召されてからだと思う。ハープやギターなどの楽器制作を断り擦弦楽器のみしかしない。仕上げ塗りも赤系色のみと彼が決めた。
他の工房の作品に比べると高価だと噂されるのだけれども、どの工房より音量があり聞く者の注目を浴びる彼の作り出す作品の音は求められている音なのは間違いようがない。
所持したいと要望する貴族が増えるほど、「先日に楽器をお求めになられた貴族様は、これだけの価値を付けて頂きました。」とお伝えする事によって楽器ひとつが市民が一年働いて手に入る金額になるのも仕方がない事なのよ。
ある時に見えた未来は、棺桶に収まり天に召される風景で黒衣を纏う7人の子と共に絶望に包まれた彼の姿、そして棺に収まる人は横に大きな女性。
神は待てなかったのね。
長かった髪を自身の手で切り取る。夫は驚くかしら。
私の居ない後の時に向けて、後妻となり得る女性を家事に雇い、それぞれの子にも役割を与え、後妻への手紙を沢山残す。
彼が彼でいられるために。
そして彼にしか出来ない、わがままなお願いを一つ。
私の髪をパーフリンクに埋めて、手放さずに愛として。と。




