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変換期

 独立の話が決まってからは多忙を極めた。ニコロさんの善意による経営者視点の話や未完成であった作品の仕上げ等放置できない物事を日々熟す。

 ある日ジローラモさんから2週間の期限を示された。つまり解雇まで今日を含めて14日。工房の私室は引き渡し自宅から通う。見知った職人に挨拶を行った。帰宅後、独立にあたり経営と手配は妻フランチェスカが引き受けて準備は進められていた。つまり、私は製作するだけで良いそうだ。独立に向けて既に工房はクレモナのサン・ドメニコ広場前に構えてある。木材は古巣である一族ストラディバリいちぞくの工房で選定から保管まで請け負ってもらう手筈で、職人も妻によって手配され紹介を受けるだけだったが、それぞれの得意な作品を見て納得は出来た。あと、子のフランチェスコ(9歳)が見習いとして工房に入る。


 アマティ工房への最終日。もう個人的なやり残しは無い。工房の刃物を研ぐ事が最後の仕事だった。その数22本、その大半は未熟な職人に充てがわれる物だが仕事の出来は刃物で決まる。切れ過ぎて困る事は無いが、切れない刃物程役に立たない物は無い。切れない刃物を日常にしてはならないのだ。時々、削れて凹む砥石同士を擦り合わせて均す。

 研磨中の来客は4名。師したるニコロ・アマティと弓作師モーシャンさんとマルコさん。これからの職人人生について、どんな音が求められていくのかを問い合う。


去る者への言葉に非難はなかった。モーシャンの


「いつかお互いの楽器どうぐで再会を果たそう。」


にあり得る未来を感じた。

ニコロ・アマティと軽く抱き合うと、別れを告げる。



独立した工房に届いた木材は、アマティ宮殿こうぼうで扱う木材よりも大きく劣った品質だった。所々で繊維はうねり、木理は粗い。これからと言う時に頭を抱えた。

妻のフランチェスカに聞いても仕方がないと思いを抱きながらも、夕食後のひとときに話し合う。


「本当に良い素材は、アマティだけではなく、先達が占めているもの。私も頑張るから、今できる事で良い仕事をしましょう。」


裸のフランチェスカが布団の中で身体を触り出す。


「少し時間はかかるけれど、アントニオしか出せない音に、貴族は夢中になる未来だから。」


疑いたくなる夢をフランチェスカは騙る。


「初めから美味しいパンなんて焼けないわ。粉や塩、水とオーブンの癖を知らなきゃ失敗するもの。あなたも、アマティ宮殿にすがってしまうの?」


彼女の一言は、正しく思えた。良い物をつくりたい。その意思がなければどんな素材でもダメにするのだ。彼女の聡さに救われる。


翌日。工房の職人と知恵を出し合う。

今までの道具では、ささくれが酷くなるだけだった。アントニオの持つ日乃本ジパングじるしを使うと捗る事がわかった。

ありとあらゆる材料を徹底的に理解し、一つの答えに辿り着く。


アマティの真似をしたところで超えられない。


ストラディバリウス工房は、制作工房として険しい道を選んだ。


他の工房とは違い、工程は増えていく。


山から切ってすぐの丸太は、公衆テルマエ温泉ロマエの廃水や繊維染料の廃液、時間の経過した膠液と共に小さな池で放置した。

発酵による悪臭に一族からの不満の声を聞いたが、妻が報酬で無理を押し倒している。


運ばれた木材は切り分けて、亜麻仁油でがき、水分を抜いた。ある程度の成形した板も外側のみ、湯煎の湯煎で浸透させ、パン焼きオーブンで短時間焼いた。

本来よりも硬く滑りやすい木材でも、日乃本ジパングの刃物は確実に削ってくれた。

染料を吸わせた木材は亜麻仁油を主体としたニスでもムラのない赤みがかった色を実現させた。

ニスが半乾燥の物をパン焼きオーブンで短時間焼いた。磨き粉で艶も出す。


本来なら楽器に適さない材料でも、そこそこの音となった。むしろ、アマティ工房では聞いたことの無い深みのある音だった。


この工程を経た楽器が、アマティ工房の暴利に楽器を求め諦めきれない低級貴族が紹介を受けて求める事になるのは必然だった。



もっと数を。

妻に求められるままに職人は全力を尽くす。

ニスの乾燥時間が短くなった事で、ひと月に4挺も完成できるまでになる。


貴族が求める。職人はより高い報酬を得る。材料費は上がらない。貴族はアマティ工房よりも安価な報酬を支払う。


貴族の執事達とのやりとりの全てはフランチェスカが対応する。アントニオに見えるのは少しずつ品質の良くなる木材、定期的に届く日乃本の刃物と砥石の山。完成に使う各音の動物ガット弦。


工房の誰もが活き活きしていた。


夜、フランチェスカに聞いてしまった。

楽器は売れているのか?と。


「出来上がって、7日も経たないうちに売れちゃうわ。一般的年収半分きんかろくまいで。」


これには驚いた。かつてのアマティ工房よりも高い。


「気にしないで。全ては工房の維持費にしかならないから。」


単純計算ではひと月で一般的年収の2倍の売り上げだ。これが工房の維持費でしかない。

ブルリと震えた。



ひと月に6挺の制作ができる様になった頃、2人目の息子オモボノも工房で手伝いと称した遊び場となっていた。

ある日、オモボノが木型を落として一部分を壊してしまう。

それが新しいパターンの始まりになるとは思わなかった。ロワーバウツを以前のアマティ系よりも少しだけ豊かに。


完成品は女性が暗く泣き叫ぶ様な色気を孕んでいた。


鳥肌が立つとはこの事か。

誰もが言葉を失う。

フランチェスカに届ける事を一時見合わせた。


次に出来た類似パターンも似たように震えた。

工房はこのパターンを正式なスタイルにする。

時間があるなら職人も自分の楽器を作っていい。

報酬と時間の余裕は、更なる進化の揺かごとなった。


フランチェスカは、新しい外見フォルムに価値を見出した。定価売りを辞めたのだ。前の人はこの金額でお求めになりました。と。



ジローラモ・アマティは売り上げの変化に苛立ちを隠せない。

明らかに取り引き量が減り、在庫が増えている。なにより多方面に手を伸ばした経営も今ひとつに見えた。


つい先日のサロンに持ち込まれたアントニオ・ストラディバリウス工房の楽器。多分アレだ。

音量と色気で他の楽器を圧倒した。朗々と他の旋律すら飲み込み、最後まで印象を独占した。

あの場所に他の職人が居なくて良かった。去った者が超えた事実に心が折れるだろう。


かつての栄光では相手にすらならない。そんな予感はニコロならばどう思うのだろうか。

父の書斎を訪ねる。父も暗い顔をしていた。


「生々しい命を叫ばせる器が彼の答え。か。」


手元には空になった瓶が3本。


「ジローラモ、アレを手放したのは愚かだったな。」


その言葉に何も言えなかった。



ストラディバリウスの工房は平常運転だった。

ただし、ストラディバリウスが監修した楽器と工房作品はラベルが分けられフランチェスカは販売する。


今日も、今日とて、明日とて。

毎日の様に複数の貴族を相手にするのは骨が折れた。

よって、販売のルールを誰かの紹介無しには販売しない。入荷した時点で10名に手紙を送る。希望金額を指定して返事し、折り返し連絡受けた者が購入できる。と、した。


この多額の半分は教会に、1/4は市民税の過分納入として寄付された。


こうして、アントニオ・ストラディバリウスは生きながら伝説となったのである。


FIN

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