第二章 化け猫
第二章 化け猫
真夏の暑さ厳しい時分、託二は、合わせをだらしなくはだけ、団扇で風を送っているが、一向に暑さ和らぐ気はしない。ぐったりしている託二は机から握り飯を取ると向かいの席の多津美に声をかけた。
「しかしねぇ多津美さん。差し入れはありがたいんですが、休みなんですから今日ぐらい休んでくださいよ。休日手当を出すわけにはいきませんよ」
託二は握り飯を口に運んだ。
「私は自分の家で料理を作っただけです。仕事じゃありませんよ。それに先生は放っておくとご飯食べてないじゃないですか」
責めるように多津美の視線に託二は首をすくめた。
「まま、腹が減ったら実家に帰りますから…、昆布ですね」
「はい、いいものが入ったんですよ」
多津美は、うれしそうに食材の話を始めた。託二は聞き流して、何事か考えている。多津美の話が一区切りついたあたりで託二が切り出した。
「ええと、これは今進めようかと思っている話なんですが、信藤の養子になりませんか、親父の下、末席に入る感じになると思いますが、どうでしょうかね?」
「ええっ!養子ですか?…いえ、その」
多津美は驚いて左手を口の前にあてた。多津美は、よく表情が顔に出る。
「それがですね、良縁を探そうにも家が家がと言われてしまって、実績も十分なので信藤に入ってもらおうかと」
多津美は、落胆したように肩を落として、
「…なるほど、意図はそうなのですか…
いいんです。私はずっと独身なんです」
「いやいや、そんなこと言ってる女性は何人か見てますけど、年取ったら悲惨ですよ。良縁は早いほどいいってもんで、………まあ近いうちに話を持っていきます」
「いやいやいや、本当に遠慮します」
多津美は左手を大きく振って否定する。託二は悪い話ではないはずなのになぜ断るのかと、多津美の真意を掴みかねて、気がかりを口にした。
「えっ?ずっと雇わせるつもりなんですか?」
「………いえ、無給でも…
多津美は悲壮な表情で俯いた。それを見て託二は、慌てて提案を取り下げる。やはり無理強いはよくなかった。託二は多津美が喜ぶものと考えていたのだが。
「いやいや、一人ぐらい雇い続けますよ。
わかりました。わかりましたよ。じゃあ養子の話はなかったことにします。でもよく考えてみてくださいよ、婚姻は早すぎるってことはないんですから」
「そうですか。わかってもらえてうれしいです!
あの、お話はお断りするので迷惑をかけてしまいますが、仕事はずっと頑張りますから!」
多津美は向日葵のように満面の笑みを浮かべた。
「ええ、よろしくお願いしますよ」
会話の合間にも握り飯を食べて、眠気を催した託二はあくびを一つ。それを見て、
「おやすみなさい。先生。お話ありがとうございました」
多津美は部屋を出ていった。託二は眠気に抗うことをやめると机にうつぶせになって、数分後には夢に引き込まれていった。
部下全員にいくばくかの夏休みを与えて、しかし副官は自宅と同じ建物に陣取っているので、自分も休みを満喫するために託二は、商業区から歓楽街に向かっていた。堀をまたぐ橋の一つに足を向けて、異常な光景に目を疑った。人の波をすり抜けて子どもが歩いてくる。その子は、まるで幻であるかのように人々にぶつかることなくすり抜けて、しかし周りの誰からも意識を向けられもしないで、こちら側に向かってくる。託二と目が合った。託二はつい視線をそらしてしまって、その不自然な動きが興味をひいてしまったのか、子供は歩みの向きを変えると託二に向かってくる。託二は視線を橋の先に戻して、足早に立ち去ろうとして、明らかな異常に固まってしまった。橋の上から人が消えた。周りを見渡しても、巨大な橋の上には自分と怪しげな子供しかいない。化かされたか、それとも幽霊だろうかと託二が考えていると、声がかけられた。
「お兄さん、僕のこと見えてるの?見えてるよね」
託二は、懐のお札を掴むと、子供に視線を向けて観察する。藤の単衣に渋茶の帯、外にいることが多いのか肌は焼けている。揺れる麻色の髪の下、黄金の瞳がこちらを観察するように視線を向けてくる。
託二は話しかけて相手の出方を窺うことにした。
「どうした?坊ちゃん。何か用でも?」
「お兄さん僕のことが見えているし聞こえているね。うんうん、特別な感じだなって思ったんだよ」
子供は嬉しそうに言うと、託二に歩み寄ってくる。託二は身をひるがえして逃げようかとも考えたが、何とかなるという直感を信じて会話を続けることにした。
「坊ちゃんは、あれかい、化けて出たってやつなのかな?」
子供は、託二の言葉に人差し指を振ると
「坊ちゃんじゃなくて平吉っていうの。そう呼んで欲しいな」
「ああどうも、俺は託二って呼んで」
それを聞いて平吉は、託二に駆け寄る。託二はつい身を引いて、それを見て歩みを止めた平吉は、
「怖がらせちゃったみたいだね。やっぱり時間が必要かな。
じゃあね、託二。次もお話してくれると嬉しいな」
そう言うと走り去った。
しばらく託二が呆然としていると、不意に橋の上はいつもの活気を取り戻して、消えていた人々がまた現れた。いや、神隠しにあっていた託二が戻ってこれたということかもしれない。緊張の糸が解けた託二は、自分がかなりの汗をかいていることに今になって気が付いて、汗を流すために、来た道を引き返し、自宅に戻ることにした。
まだ夏休みの中、雨が降る日の昼過ぎに託二は自室で書をしたためている。室内には最近託二の部屋に入り浸っている平吉もおり、うつぶせに寝ころんで木の板に赤チョークで何やら書いている。話を聞けば、どうやら他の者には平吉の姿は見えず声は聞こえずといったようで 、生まれた時から独りぼっち、誰からも認識してもらえなかったという。その話に託二は多少同情してしまって、平吉の勝手を許している。……どこまで話を信じていいのか分かったものではないが。
部屋を包み込むかのような雨音は、刺々しい生活音などを吸収してしまって、託二は何かに煩わされることもなく、穏やかな気持ちで作業を進めている。そんな時間を破ったのは、一通の知らせであった。ためらいがちに侍従が渡してきた書状には信藤の印があり、開けて読んでみれば、それは怪物退治の命であった。ここ数日で獣が幾人もの赤子や子供を奪っていったという。目撃は多くされているが、動きが速く、捕まらないのだという。託二は、無理難題を押し付けられたかと苦い顔になった。
「どうしたの?託二」
いつのまに近づいていたのか、平吉が託二の顔を覗き込んできた。
「いやね、この広い街でかくれんぼをやれって話で、……嫌になりますねぇ」
「ふ〜ん。誰を探すの?」
託二はもう一度書状に目を向けて、
「ええと、どうやら猫の化け物みたいですね。体長1m、いや、目撃情報なんてあまりあてにはならないのですが」
目撃情報が間違っていることなど、珍しくもなくて、ネズミを狩ってくれと言われていったら大グモの相手をすることになったということもままある。もちろん、その逆もあるのだが。
「託二が探すのが大変なら、僕が見てきてもいいよ」
不思議の力を持っているらしい平吉であるが、いまだ不明な点が多すぎる。楽ができるなら考え物ではあったが、託二は仕事を任せることを不安に思って、
「いやいや、それには及びませんで、ちょっくら行ってきます。楽勝ですよ」
そういって託二は、押し入れからいくつか懐に押し込むと、疑わし気な平吉の視線に見送られるように部屋を出ていった。
広い街の中から特定の化け物を見つけるという、なんとも初っ端から困難ではあるが、託二の特別の目の良さはそれを問題にもしない。屋根の上に上がった託二は、目を凝らそうとして、自分がどこにいるかを自覚する。
暗い星もない空、そして光を吸い込むかのように黒々と冷えた水面、この境界に辛うじて温かみを残すように水面から突き出た飛び石と鳥居は表面が淡く輝いているようにも見える。そこで託二は、慈しむかのように鳥居の一つを撫でて、ある言葉を紡いだ。
視界にノイズが走り、通常なら身を隠している化け物の姿が託二の視界に映る。あれでもない、これでもないと化け物を見回して、遂に大きな猫を見つけた。隆起した筋肉に鎌のように伸びた爪、やせ細った他の化け物と違いだいぶ肥えていて生きがいいように見える。どうにもあいつが怪しいと託二はあたりをつけた。屋根から飛び降りた託二は危なげなく着地すると、のんびりと歩いて近づいていく。
化け物が塀の上で休んでいることを認めて、託二は包囲するようにお札を配置していく。自分の周囲を回る託二の動きを不審なものと認めてか、化け物は一瞬身を縮めて力を込めると、一息で託二のもとまで走り寄った。速い。託二は持っていたお札を投げて、懐から長い釘状の武器を取り出した。化け物は、お札に当たり、一瞬停止したが、牙と爪で引き裂くように拘束を破った。そして、託二の手に獲物を認めると、踵を返して跳ぶと屋根の上に着地した。化け物は屋根の上、きれいな放物線を連続で描く軌跡で去っていく。託二は駆け出すが、標的のあまりのはやさに心は暗く沈んだ。見失うことはないが、追いつけないほどの速度差があるので、疲労を待つ持久戦になる。といっても化け物の方がスタミナがある気がするので、見通しは暗い。
屋根の上を警戒にはねていた化け物が、不意に軌道を変えて地面の方に降りてきた。そして、地上でも同じように放物線を描いて跳んで、しかし、その軌道が変わった。それまでの美しい弧を描いていた軌跡が、地上と中空を直線で結ぶようなものに変わって、次第にその動きは遅くなっていった。託二は、段々と化けものに追いついてきて、ついに路地裏で化け物を追い詰めた。託二が思うよりも化け物のスタミナは貧弱であったらしい。
託二は釘を手に化け物と距離を詰めていく、化け物は威嚇するように唸り声をあげて、牙をむき出しに脚に力を込めて、なぜか垂直に空中へと昇って行った。綱もないのに首をつられたかのように空中で戒められた化け物は泡を吹いて、歯が砕けるような音ともに落下して、絶命したのか動かなくなった。託二が状況を飲み込めないでいると、背後から声をかけられた。
「託二は、かくれんぼは得意だけど鬼ごっこは苦手なんだね」
「……平ちゃん」
平吉は託二に歩み寄ると袖を引く、
「でもつまらなかったな。早く帰ろうよ。僕絵を描いたんだよ、託二に見せてあげる」
「そりゃあ結構なことで、………あっ、少し待ってくださいね」
託二は平吉に何か言いたげであったが、もう深くは考えないことにして、仕事がはやく終わった幸運に感謝した。託二は化け物に近寄って、釘を神経に突き刺して、生きてはいないことを確認した。
託二は、平吉に手を引かれるまま自宅へと走っていった。




