第10章 第3話 紅い風
――ジーク、目を開けろ。頼む――!
アーサーの悲痛な願いも虚しく、瓦礫の山へと倒れたジークはもはや身じろぎ一つみせない。
羽毛一枚すら残さず、完全に消えた背中の翼は、彼の意識が失われたことを教えている。
「最後の質問だ。今一度私の術を完全に受け入れ、私に仕えるつもりはないか」
ロキの声は冷たく響く。
「お前には魔法の才能もある。攻撃に加えて回復魔法まで使えるなら、お前を使ってやれないこともないぞ」
――ジーク!
アーサーは固く両目を閉じる。
孤児院の夜に味わった、あまりに深い後悔と慚愧。
フィアナに頼み、身につけたはずの回復魔法。
しかし肝心な時に、その力はなんの役にも立たない。
満足したような笑みを浮かべ、ロキはアーサーのそばに屈む。
帝城で、ジークとアーサーが再会した日に唱えた術。
思考も、信念も、全てを奪われ、『駒』へと変わる洗脳の術。
アーサーは抵抗の意志をみせない。
自分一人でできることなど、たかが知れている。
――ジーク、俺もすぐにそちらへ行く――
全てを受け入れ、閉じたままの瞳の奥で、彼の思考は止まろうとした。
――その時だった。
突如として吹き荒れる風が、砂塵を巻き上げ、ロキの視界を一気に奪う。
「なんだ!この風は!」
神の声に、アーサーが大きく目を見開く。
とらえることも払いもできない、自身を襲う強い風に、神は大きく腕を振るう。
――風に、助けられた?
意思を持つように神の周囲に吹き荒れる風。
そして、この時アーサーは、叫ぶ風のその向こうに、確かな既知感と、ある存在を感じ取った。
風はやがて、神のもとからジークへ向かう。
人のような姿をなし、彼を包むその風には、聞き覚えのある声がかすかに、しかし確かに混じっていた。
――ジーク、生きるんだ――
倒れたジークの指先から、わずかな音が神に届く。
乱れた髪を払うように、頭を振った神の視線がジークを見る。
床を掴む両手のひらが、周囲に散った礫を鳴らす。
一度深く咳込んだ喉から、錆色の泥が一気に吐かれる。
「――情け、ないよな」
震える右腕が床を押し下げ、彼の頭がわずかに上がる。
「――あの日、あなたの魂の安寧を願ったのは」
膝を引き寄せ、肩の高さが瓦礫を超える。
「――決して、嘘ではないのに」
足の裏が大地をとらえる。
反動で上体が大きく揺らぐ。
「――俺は、あなたに助けられてばかりだ」
前かがみだが立ち上がった状態から、ジークはまっすぐ顔を上げる。
額からは血が流れ、口の端は黒く尾を引く。
それでも、その袖口で頬を拭うと、彼はその青い目を、神に対して突きつけていた。
「馬鹿な……、致命傷だぞ」
呟くようにロキが漏らす。
アーサーの目に涙が溜まる。
ジークはそのまま、一度大きく体を反らせ、再び背中に翼を生み出す。
端麗に整った白の翼。
先程までの折れたそれとは比較にならない。
「どういうことだ、なぜ――」
ロキが一歩片足を引き、それとともに頭を振る。
その狼狽はすでに、隠せるものではなくなっていた。
「――貴様には見えないか。貴様が利用し、踏みにじり、その生命さえも奪った者の、死してなお潰えぬ、その矜持が――」
ジークの言葉に、ロキは見えにくいものでも見るかのように、首を傾ぎ、顔をしかめる。
「なぜだ!なぜ、貴様がここに!」
跳ね上がる体と、震える声。
銀髪の男の傍らには、彼を守るように立つ『紅い死神』の姿があった。
「ああ――」
同時に、声の漏れるアーサーの肩には、後ろから優しく片手が触れる。
――ロシェ!
彼の知る、神の依代としての表情ではなく、穏やかな年相応の青年の笑み。
――世界樹の理。
人間界で死を迎えた者を魔界――本来の冥界へと送り届ける。
彼らがいるのは偶然ではない。
世界本来の摂理、そして魂となってなお、消えることのない彼らの矜持。
胸の底からあふれ出す思いに、アーサーにはもはや落ちる涙を抑えることはできなかった。
「貴様にはわかるまい。人の意思はなによりも強い。例え体が失われようと、心まで奪い去ることなどできはしない!」
白と紅が周囲に混ざり、金と輝く光の風を、伴いながらジークは言う。
「――ほざけ!」
突進する神と、ジークの剣とが交錯する。
神の胸が、衣服を割いて浅く切られる。
今までとは異なる強い踏み込み。
『死神』の剣が乗り移ったような、風のように流れる妙技。
一瞬の受創にためらった神に、再び一閃が彼の衣服の端を捉える。
白い剣跡は少しずつ、神の体に通じ始めた。




