EP 9
県境で戦車を動かすな!
名古屋高速から名神高速、そして東海北陸自動車道へと続く高架道路を、赤色灯を激しく明滅させた黒塗りの防弾指揮車両が猛烈な速度で北上していた。
車窓の外を、尾張北部の街並みが矢のように飛び去っていく。
助手席には陸上自衛隊の藤堂直人、後部座席には信長と、道三の密使である長谷川が並んで身を沈めていた。その後続車には、通信機とタブレットを抱えた井川澪と水野志保が張り付いている。
「現在位置、一宮木曽川インターチェンジを通過! 県境の北方橋まであと三分です!」
助手席の藤堂が、ダッシュボードの軍用無線機に怒鳴り散らした。
「北方橋警備小隊、聞こえるか! 絶対に撃つな! いかなる挑発があろうと、こちらから発砲することは厳禁だ! 信長公が直々に現場へ向かわれている!」
スピーカーの向こうから、激しい風切り音と、押し殺したような若い小隊長の悲鳴が返ってきた。
『――ふ、不可能です、藤堂一佐! 岐阜県側の軽装甲機動車が、木曽川大橋の中央バリケードを突破して前進してきました! 車載重機関銃の銃口が、こちらの先頭トラックに向けられています! 愛知側の県警機動隊がパトカーを盾に拳銃を構え、自衛隊員も小銃の安全装置を解除しました! あと数メートル詰められたら……現場が保ちません!』
「ええい、歯がゆい!」
後部座席で、信長が革張りのシートを激しく拳で殴りつけた。
「トウドウ! 何を怯懦なことを抜かしておるか! 岐阜の兵が橋を渡って攻め寄せてきたというなら、我が方の装甲車を叩き込め! 鉄の弾幕を張って押し返し、橋ごと踏み潰してしまえ!」
戦国武将としての本能が、信長にそう叫ばせていた。
敵が刃を抜いて間合いに入ってきたのだ。先手を取って叩き伏せるのが合戦の鉄則ではないか。
だが、助手席の藤堂は、血を吐くような形相でシートを振り返った。
「なりません、信長公! 現代の兵器同士がこの至近距離で撃ち合えば、どうなるかお分かりですか!?」
「何だと!?」
「装甲車の十二・七ミリ重機関銃弾は、鉄板はおろかコンクリートの橋脚すら粉砕します! 小銃の5・56ミリ弾が乱れ飛べば、一秒間に数百発の鉛が木曽川の上を吹き荒れるのです! そうなれば、兵士たちの命が消えるだけではありません!」
藤堂はフロントガラスの向こう、遠くに見え始めた木曽川の橋を指差した。
「立ち往生しているトラックには、美濃の病院へ送るはずの輸血用血液パックや、高圧の酸素ボンベ、人工透析液が満載されているのです! 流れ弾一発でトラックは爆発炎上し、橋は地獄絵図と化します! 一度火蓋が切られれば、愛知と岐阜の全面衝突は避けられず、双方に数千、数万の死者が出ます!」
「…………っ!」
信長は息を詰まらせた。
さらに、車載通信機のスピーカーから、後続車に乗る井川澪の鋭い声が割り込んできた。
『澪です! 信長様、藤堂さんの言う通りです! ここで一発でも撃ち合えば、昨日から必死に築き上げてきた医療ルートも、部品の再生計画も、すべて水泡に帰します! 現場の恐怖による暴発で、愛知と岐阜の未来を永久に焼き払う気ですか!』
「く……」
信長の奥歯がギリと鳴った。
――勝てるのに攻められぬ。
――撃てるのに撃ってはならぬ。
現代の兵器は、あまりにも強大で、あまりにも破壊的すぎるのだ。一度引き金を引けば、もはや手打ちも和議も存在しない。互いの息の根が止まるまで殺し合う泥沼の破滅が待っている。
「……長谷川」
信長は隣に座る道三の密使を睨みつけた。
「マムシの差し金か。貴様ら、最初から我が愛知の補給隊を誘い出して、血祭りに上げる腹だったのではないだろうな」
「滅相もございません!」
長谷川の額にも、大粒の脂汗が吹き出していた。
「道三公は、信長公の知恵と器量を試すために県境を塞がれましたが、無意味な武力衝突など微塵も望んでおられません! 岐阜にとっても、愛知の物資が届かねば民が干上がるのです! これは……現場の指揮官同士が極度の緊張に耐えかね、互いを『侵略軍』と誤認した暴走に間違いありません!」
「ならば、止めよ!」
信長は長谷川の胸ぐらを掴まんばかりに身を乗り出した。
「貴様の口から、岐阜の兵どもに『銃を収めよ』と命じろ!」
「はっ……直ちに道三公の直通電文を繋ぎます!」
木曽川にかかる国道二十二号・北方橋。
秋の冷たい川風が吹き荒れる橋の上は、まさに一触即発の極限状態にあった。
愛知側には、大型トラック十数台を背後に従えた愛知県警の機動隊車両と、陸上自衛隊第十師団の九六式装輪装甲車が二両、横付けに配置されている。自衛官たちは遮蔽物に身を隠し、八九式小銃の銃口を対岸に向けていた。
一方、木曽川の中央に設けられたコンクリートバリケードの向こう――岐阜県側には、緑色の斑模様の軽装甲機動車が三両、けたたましいエンジン音を轟かせながら前進してきていた。屋根のハッチから身を乗り出した岐阜側の自衛官が、重機関銃のグリップを握りしめ、人差し指を引き金にかけている。
「愛知側の部隊に通告する!」
岐阜側の指揮車両から、スピーカーを通じて絶叫のような拡声器の声が響き渡った。
「直ちに前進を停止し、エンジンを切れ! 貴部隊の無断前進は、岐阜県に対する武力侵攻とみなす! 繰り返す、これ以上の接近は容赦なく射撃する!」
「ふざけるな!」
愛知側の現場指揮官である自衛隊の三等陸佐が、ハンドマイクで怒鳴り返した。
「我々は岐阜県知事官房からの要請に基づき、医療物資を輸送しているだけだ! そちらこそ装甲車を後退させろ! 銃口を向けたままの対話を認めるわけにはいかない!」
双方の距離、わずか五十メートル。
どちらか一人が指を滑らせ、銃声が一発でも響けば、それが合図となって凄まじい鉄の嵐が吹き荒れる寸前だった。兵士たちの額から汗が流れ、息が凍りつく。
その時だった。
キキィィィィィッ!
耳を劈くようなスキール音を響かせ、黒塗りの防弾大型セダンが、愛知側のバリケードの隙間を猛烈な勢いで割り込んできた。
パトカーと装甲車の間に滑り込むように横付けされ、停止する。
「なっ……何だ、あの民間車は!?」
愛知側の隊員が目を見張る中、セダンのドアが勢いよく蹴り開けられた。
車内から姿を現したのは――黒革のマントを風に翻し、腰に一振りの太刀を帯びた、織田信長その人であった。
「な……信長公!?」
愛知側の隊員たちが息を呑み、どよめいた。
「殿! 危険です、下がってください!」
現場の指揮官が叫びながら駆け寄ろうとしたが、信長はその制止を手で激しく払いのけた。
遮蔽物も何もない、橋の中央。両軍の銃口が交差する死線へと、信長は大股で歩み出た。
凛とした気迫。数多の死線をくぐり抜けてきた覇王の威圧感が、木曽川の冷風を切り裂いて橋の上に満ちていく。
信長は、岐阜側の装甲車の上にいる機銃手を真っ直ぐに睨み据え、天をも揺るがす大音声で一喝した。
「――双方、銃を引けッ!!」
橋の上に、信長の声が雷鳴のごとく轟き渡った。
「尾張国主・織田信長である! 岐阜の兵ども、よく見よ! この信長が、己の身を晒してここに立っておるぞ! 撃ちたくば、まずこのわしの眉間を撃ち抜いてみせよ!」
信長は胸を張り、両腕を大きく広げて見せた。
岐阜側の機銃手が息を呑み、引き金にかかった指を思わず硬直させた。目の前に立っているのは、教科書に載っているあの織田信長その人であり、同時に、一歩も引かぬ圧倒的な「王」の威厳だった。
間髪を容れず、信長の背後から長谷川が飛び出し、岐阜側の指揮官に向けて掲げたタブレットを振りかざした。
「岐阜県警および自衛隊普通科部隊、直ちに火器の安全装置をかけよ!」
長谷川の叫びが響く。
「道三公特命秘書・長谷川である! この通信を見よ! 道三公より、愛知からの人道救援車列の受け入れに関する緊急無電が発令された! 双方に敵対の意思なし! 繰り返す、直ちに武器を収めよ!」
岐阜側の指揮車両の無線機が、けたたましく鳴り響いた。
車内にいた岐阜の警備隊長が通信を受け、数秒後、信じられないものを見るように目を見開いた。
『……ぎ、岐阜県知事官房より全隊に通達! 火器の安全装置を掛けろ! 後退、後退しろ!』
ガチャリ、と岐阜側の隊員たちが銃口を下ろした。
軽装甲機動車の重機関銃がゆっくりと天を仰ぎ、バックギアに入れられたタイヤが白煙を上げて後退していく。
愛知側の藤堂も、すかさず号令を飛ばした。
「全隊、銃を下ろせ! 装甲車を路肩へ寄せろ! トラックの運行を最優先とする!」
張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ。
両軍の兵士たちが、へたり込むように息を吐き出す。
あと数秒、誰かが叫び声を上げていれば、この橋の上で数十人の命が散っていたはずだった。その破滅を、信長は己の肉体一つを晒すことで、力ずくでねじ伏せてみせたのだ。
「……ふう」
信長はマントを払い、静かに息を吐いた。
冷や汗が背中を濡らしていたが、その顔には天下人らしい不敵な笑みが張り付いていた。
「見たかトウドウ。これが、わしの『前線指揮』よ」
「心臓が止まるかと思いました、信長公……」
藤堂が青ざめた顔で駆け寄り、心底から安堵のため息を漏らした。
「ですが……見事でした。あなた様でなければ、この暴発を止めることはできませんでした」
危機が去った北方橋の上で、後続車から降りてきた井川澪と水野志保が、長谷川を交えて即座に現場の収拾に動いた。
愛知側の大型トラックから、岐阜県側の輸送車両へと、厳重に梱包された透析液のポリタンクや医療用バッテリー、酸素ボンベが手際よく積み替えられていく。岐阜側の作業員たちが、涙を浮かべて愛知側のドライバーに頭を下げていた。
だが、その光景を眺める澪の表情は、依然として厳しかった。
「信長様。今回は奇跡的に防げましたが、こんな属人的な度胸試しは二度と通用しません」
澪はタブレットを指先で弾きながら、信長と長谷川の前に進み出た。
「現場の人間は、情報がないから怯えるのです。怯えるから、銃口を向けてしまうのです。双方の知事が和睦を結ぼうとしていても、前線の検問所にそれがリアルタイムで共有されなければ、明日また同じ悲劇が起きます」
「うむ。澪の申す通りだ」
信長は腕を組み、深く頷いた。
「現場を動かすのは、わしの肝っ玉だけでは足りぬ。……長谷川、道三殿に伝えよ。この県境の関所における『共通の作法』を直ちに定めねばならんとな」
「はっ……仰る通りにございます」
長谷川が深く頭を下げた。
その場で、澪と志保、そして長谷川による緊急の協議が行われ、愛知・岐阜県境における『暫定通行管理規則』が策定された。
一、県境における軍用車両の突入を禁止し、武装警備部隊はゲートから五百メートル後方に待機すること。
二、物資の輸送は事前に共通の暗号通信コードで品目と車両番号を登録し、双方の承認を得た車両のみが通行すること。
三、現場の検問所には双方の連絡将校を常駐させ、直接ホットラインで誤解を即座に解消すること。
現代の官僚機構と兵站管理の知恵を結集したルール作り。
信長はその条文を満足そうに眺めた。
「よい。これで、くだらぬ誤解で民の血が流れることはなくなるな」
木曽川を渡る物資の列を見届け、安堵が広がったその時だった。
長谷川の持つ公用端末が、激しい着信音を響かせた。
「……! 道三公からです!」
長谷川が画面をタップし、スピーカーをオンにした。
端末の向こうから、低く、しゃがれた、しかし猛毒を孕んだ蛇のような老人の声が響き渡った。
『――もしもし。聞こえるか、尾張の馬鹿息子』
信長の眉が跳ね上がった。
懐かしい声だった。かつて正徳寺で会見し、長良川で散っていったはずの、美濃のマムシ――斎藤道三の声そのものだった。
「……義父上か」
信長は端末を覗き込み、不敵に笑った。
「北方橋の茶番劇、見届けさせてもらったぞ。貴様の配下の腰抜けどもが、わしの眉間に銃口を向けおって。もう少しで美濃の兵を皆殺しにするところだったわ」
『くくく……ほざけ、小僧めが』
通信の向こうで、道三が喉を鳴らして笑った。
『己の身を的に晒して部下を止めるとはな。相変わらず無茶な真似をしおる。……だが、褒めてやるぞ。貴様が昔のままの短気な小僧なら、今頃この木曽川は血で真っ赤に染まり、美濃も尾張も共倒れになっておったわ。長谷川から聞いたぞ。条件を改め、対等の同盟を結ぶと言ったそうだな』
「当然だ。わしは負け戦をするために蘇ったのではない。互いに生きてこその天下よ」
『ふん、少しは天下人の口を利くようになったか。……だがな、信長』
道三の声から、ふっと嘲笑が消えた。
氷のように冷たく、本能寺の炎すら凍りつかせるような鋭利な覇気が、スピーカー越しに突き刺さってきた。
『長谷川ごときの小役人を相手に、紙切れ一枚交わして同盟を結んだ気になってもらっては困るのだ。美濃四十万の民と、空を飛ぶ翼の命運を、そんな安易な約束で預けられると思うたか』
「……何だと?」
信長が目を細めた。
道三は、低く獰猛な声で言い放った。
『今から、わしが直接そちらへ行く』
「…………!」
長谷川が息を呑み、藤堂と澪が顔を見合わせた。
『貴様の作ったその新しい尾張の国、そして貴様の器量というものを、このマムシの目で直々に見定めてやる。……名古屋城の天守を空けて待っておれ、信長』
ツーツーツー……と無情な切断音が響いた。
木曽川の秋風が、信長のマントを激しく揺らした。
信長はしばし空を仰ぎ、やがて喉の奥から、地響きのような哄笑を絞り出した。
「……はは、あっはははは!」
信長は拳を握りしめ、北の山並みに向かって吠えた。
「直々に乗り込んでくるか、マムシめ! 上等だ! 尾張の国とこの信長の器量、存分にその老眼鏡で拝ませてやるわ!」
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