EP 10
美濃の蝮、令和の名古屋に来る
木曽川にかかる北方橋での衝突寸前の危機から、わずか二時間後のことであった。
黄昏の茜色が濃藍へと沈みゆく名古屋城の本丸前広場に、数台の車両が赤色灯を静かに回しながら滑り込んできた。
先導する愛知県警のパトカーに守られるようにして停車したのは、岐阜県知事公用車の黒い大型セダンだった。
運転席から降りた秘書の長谷川が素早く後部座席のドアを開ける。
夜の冷気が車内へと流れ込む中、ゆったりとした仕草で外へと踏み出してきた老人の姿に、出迎えのために整列していた愛知県庁の幹部や自衛官たちが、揃って息を呑んだ。
年の頃は六十代の半ば。
仕立てのよい濃紺の和服の上に黒い羽織を引っ掛け、頭には僧侶のように頭巾を巻いている。痩躯でありながら、その立ち姿には一陣の隙もなく、深く刻まれた皺の奥にある瞳は、夜闇に獲物を狙う毒蛇のように鈍く光っていた。
美濃の蝮――斎藤道三。
一介の油売りから身を起こし、知略と謀略の限りを尽くして美濃一国を呑み干した希代の梟雄が、本能寺で倒れたはずの娘婿・信長と同じく、令和の世にその足で立ち上がっていた。
「……ほう」
道三は出迎えの群衆など歯牙にもかけず、首を巡らせて夜空を見上げた。
ライトアップされ、黄金の鯱を輝かせて白亜の巨躯を浮かび上がらせる名古屋城天守閣。そしてその遥か背後に広がる、天を衝く摩天楼の無数の窓明かり。
「これが、尾張の新しい城か。那古野の古城しか知らん身には、少々目が眩むほどの威容よな」
しゃがれた、しかし芯の通った声が秋の空気に染み渡る。
「義父上」
本丸御殿の式台から、大股で降りてくる足音があった。
黒革のマントを風に翻し、堂々たる体躯で歩み寄る信長だった。
信長の背後には、陸上自衛隊の藤堂直人、産業政策補佐官の井川澪、内政補佐官の水野志保が、それぞれ張り詰めた面持ちで控えている。
信長と道三。
二人の視線が、わずか数間の距離で真正面から交錯した。
かつて弘治年間、美濃正徳寺で会見して以来、何十年、いや四百数十年ぶりの再会であった。
あの時は、信長が虎革の袴に鉄砲五百挺を引き連れ、道三の度肝を抜いた。今また、二人は炎と死の淵をくぐり抜け、見知らぬ令和の世で対峙している。
「……くく」
信長の口元が、抗いがたい歓喜に震えて吊り上がった。
「あはははは! 息災であったか、義父上! 長良川の土手で果てたはずの老いぼれマムシが、閻魔の帳簿をくすねて這い出してきおったか!」
信長の放埒な笑い声が静寂を突き破った。
道三の眉がピクリと跳ね、皺だらけの顔に不敵な笑みが広がっていく。
「ほざけ、尾張のうつけめが。閻魔とて、この道三の脂っこい魂は喉を通らなんだわ。……それにしても、見違えたぞ信長。少しは天下人の面構えになったではないか」
「当然だ。あの世で貴様に笑われぬよう、腕を磨いておったからな」
二人の英傑が互いに睨み合いながら、短く笑い声を交わす。
血生臭い乱世を生き抜いた者同士にしか通じ合わぬ、奇妙な親愛と、皮膚が粟立つような緊張感。周囲の現代人たちは、誰一人として口を挟むことすらできなかった。
案内された名古屋城本丸御殿・上洛殿の広間。
絢爛豪華な金箔の障壁画に囲まれた上座に信長が座り、対面に道三が静かに腰を下ろした。脇には澪、藤堂、志保、そして岐阜側の長谷川が控える。
給仕が差し出した温かい茶をすすり、道三は満足そうに息を吐いた。
「木曽川を渡り、ここまで走る車とやらの中で、尾張の景色をとくと拝見させてもらったよ」
道三は茶碗を置き、細い指で机を軽く叩いた。
「平らで広い黒い道、煙も吐かずに疾走する鉄の輿、そして天に届く硝子の楼閣群。……さらに道中、長谷川から聞いたぞ。豊田の巨大工房を新車の量産から部品の修理へと切り替え、病院を救うために道を一本丸ごと空けて自衛隊の輿を走らせたそうだな」
「うむ。この澪と志保の知恵を借りてな」
信長が胸を張ると、道三は目を細めて澪と志保を一瞥し、低く喉を鳴らした。
「見事な差配だ。わしの知る信長なら、喚き散らして装甲車を突撃させ、橋の上で自爆しておるところだった。……だがな、信長」
ふっと、道三の瞳から笑みが消え失せた。
まるで氷の刃のような鋭利な光が、信長の眉間を正確に捉える。
「見事な国を手に入れたな。――だが、腹が減れば人は機械を食うわけにもいくまい」
「……何?」
信長が眉をひそめた。
道三は身を乗り出し、薄い唇から残酷な現実を紡ぎ出した。
「愛知七百四十万の民。昼夜を問わず車を走らせ、機械を回すこの巨大な工業地帯。……して、信長。その七百四十万の腹を満たす『米』は、この尾張と三河の土からどれほど獲れるのだ?」
「米だと……?」
信長は言葉に詰まり、思わず隣に控える内政補佐官の志保を見やった。
志保は青ざめ、手元のタブレットの画面を信長と道三に向けて恐る恐る提示した。
「……愛知県の食料自給率は、カロリーベースでおよそ『十五パーセント』です」
「じゅうご……?」
信長の目が点になった。
「残りの八割以上は、他県からの輸送、ならびに海外からの輸入食料に完全に依存していました」
志保の声が震える。
「現在、県境が閉ざされたことで、都市部の流通倉庫にある米や小麦、冷凍食品の備蓄は、県民全員に配給した場合――せいぜい三週間から一ヶ月分しかありません。それが尽きれば、愛知は猛烈な食料危機に直面します」
「十五パーセント……!?」
信長は思わず息を呑んだ。
七百四十万の大国。空飛ぶ鉄の鳥を操り、無敵の装甲車を揃え、日ノ本一の工業力を誇るこの尾張が――自前の土地だけでは、民の二割すら食わせることができぬというのか。
「くくく……呆気にとられた顔だな、信長」
道三が嘲るように笑った。
「戦国乱世、尾張は肥沃な濃尾平野を抱え、石高において他国を圧倒しておった。だが令和の尾張は違う。田畑を潰して工場を建て、道路を敷き詰め、金を稼ぐことばかりに現を抜かしてきたのだ。結果はどうだ。外からの兵糧攻めに、これほど脆い国もあるまい」
道三の言葉は、信長の喉元に深く突き刺さった。
石油がない。部品がない。そして――米すらない。
どれほど頑丈な戦車があろうと、兵士が飢えれば動かせぬ。どれほど精密な工作機械があろうと、職人が餓死すれば鉄の塊に過ぎない。
「信長」
道三の声音が、ひときわ低く重くなった。
「燃料の配分や部品の繕いなど、ほんの目先の小細工よ。貴様はこの先、四十六か国が睨み合うこの分断された日ノ本で、どうやって食料を確保し、どうやってエネルギーを手に入れ、この七百四十万の民を生かし続ける気だ? その長期の算段が、貴様の頭の中に描けておるのか」
「それは……」
信長は拳を握りしめ、沈黙した。
答えを持っていなかった。
復活してまだ一日余り。目の前の病院の停電を防ぎ、工場の停止に抗い、県境の武力衝突を止めるだけで手一杯だったのだ。半年先、一年先の食料と資源の展望など、まだ何一つ描けているはずがなかった。
悔しさと屈辱に、信長の奥歯がギリと鳴る。
だが、道三の眼差しにあったのは、ただの侮蔑ではなかった。かつて正徳寺で、信長の器量を値踏みした時と同じ、深淵のような厳しさと期待だった。
「答えられぬか。無理もなかろう。この令和の世の盤面は、あまりに広大で複雑怪奇よ」
道三は小さく頷き、居住まいを正した。
「ならば、美濃の話をしよう。岐阜県には愛知のような大工場もなければ、七百万もの人口もない。だが、山河があり、豊かな水源があり、米や野菜を作る農地がある。そして各務原には、貴様らが喉から手が出るほど欲しがっている航空機の技術がある」
「……義父上」
「信長。わしはな、美濃四十万の民の命を預かってここに座っておるのだ」
道三は鋭い眼光で、信長を射すくめた。
「愛知の巨大な胃袋を満たすため、美濃の食料を吸い上げられ、美濃の職人を使い潰されるような真似は断じて許さん。愛知が岐阜を単なる『便利な属国』として扱わないという確たる保証がなければ、わしは今すぐ席を立ち、県境を永久に閉ざすまでだ」
「属国扱いなどせぬ!」
信長は思わず声を荒らげた。
「長谷川にも伝えたはずだ! 愛知と岐阜は対等な盟約を結ぶと! わしは古い戦国の傲慢を捨て、互いの主権を重んじると誓ったのだぞ!」
「口先だけなら、三歳の童でも言えるわ」
道三は冷ややかに一蹴した。
「わしが求めておるのは、盟約という名の美しい飾り物ではない。貴様がどれほど強大になろうとも、美濃の首根っこを締め上げることができぬ『制度』の楔よ」
「制度の楔……?」
「そうだ」
道三はニヤリと唇を吊り上げ、着物の懐から一通の和紙を取り出した。
それは、長谷川が持参した公用ファイルとは異なり、道三自らが墨痕鮮やかに認めた直筆の覚書であった。
道三はその紙を、パチンと音を立てて机の中央に滑らせた。
「信長。貴様と我が美濃が手を取り合い、共にこの令和の乱世を生き抜くというのなら――」
美濃の蝮の瞳に、爛々とした挑戦の炎が宿る。
「このマムシの突きつける『三つの条件』。……これを丸ごと呑んでみせよ」
読んでいただきありがとうございます。
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