EP 11
斎藤道三の三条件
名古屋城本丸御殿の上洛殿に、張り詰めた沈黙が落ちた。
金箔の障壁画が薄暗い行灯の光を照り返し、磨き抜かれた机の上を、一通の和紙が滑り落ちて信長の眼前で止まった。
信長は鋭い眼光を落とし、墨痕鮮やかに記された道三の直筆に視線を走らせた。
美濃の蝮が突きつけてきた覚書。そこに並んでいたのは、簡潔にして容赦のない三つの箇条書きであった。
「……読め、澪」
信長は顎をしゃくった。
傍らに控えていた井川澪が一歩進み出て、両手で和紙を押しいただき、抑揚を抑えた怜悧な声で読み上げ始めた。
「――美濃国主・斎藤道三、尾張国主・織田信長へ提示する盟約の三条件。
一、岐阜県における行政、司法、警察の統治権、ならびに領内自治権の完全なる独立を認め、愛知県からの内政干渉を一切排除すること。
二、愛知が保有する工業製品、再生部品、港湾備蓄物資と、岐阜が保有する農産物、水源、精密機械・航空関連技術を、対等の価値において相互に供給すること。
三、両県が他県に対して行う一切の軍事行動、部隊展開、ならびに越境作戦は、事前に両国首脳による協議と同意を必須とすること」
澪が読み終えると、広間に再び重い静寂が降り積もった。
第一条、自治権の維持。
第二条、物資の相互供給。
第三条、軍事行動の事前協議。
信長は腕を組み、畳の上で指先をトントンと規則正しく叩いた。
第一条と第二条については、先ほど長谷川との間で合意しかけた「対等の同盟」の精神に沿うものだ。愛知が巨大な工業力を持つとはいえ、岐阜の主権を踏みにじれば現場が動かなくなることは、すでに骨の髄まで理解していた。
だが――。
「……義父上」
信長の喉の奥から、地を這うような低く濁った唸り声が漏れた。
「第一条と第二条はよい。我が意を得たり、と言ってやってもよいぞ。……だが、この『第三条』は何だ」
信長は和紙を指先で強く弾いた。
「軍事行動に事前協議だと? 美濃の許可がなければ、我が軍が一歩も動かせぬというのか!」
「いかにも」
道三は茶碗の縁を指でなぞりながら、薄い唇を歪めてニヤリと笑った。
「文字通りの意味よ。愛知が他県と事を構える際、美濃が納得せぬ勝手な進軍は一切認めぬ。これは我が背後を守るための絶対の防波堤よ」
「ふざけるなッ!」
信長の怒号が上洛殿の格天井を揺るがした。
腰を浮かし、机に身を乗り出して道三を睨みつける。
「合戦とは機が命だ! 敵の隙を見出したその瞬間に、電光石火の如く軍を繰り出してこそ勝機を掴める! それをいちいち美濃に使いを出し、『攻めてよろしいか』と伺いを立てておれるか! そんな悠長な縛りをかけられては、この信長の手足をもがれたも同然ではないか!」
戦国乱世を駆け抜けた信長にとって、軍の指揮権を他者に制約されることほど耐えがたい屈辱はなかった。
同盟とは互いの背中を預け合うものであって、手足を縛り合うものではないはずだ。
「信長」
激昂する娘婿に対し、道三は微塵も動じず、冷ややかな視線を返した。
「貴様はまだ、昔の『野戦の感覚』で兵を動かせると思うておるのか」
「何だと?」
「先ほどの北方橋の有様をもう忘れたか」
道三の言葉が、信長の痛いところを突いた。
「愛知と岐阜の境で、ほんの誤解から双方の装甲車が銃口を向け合い、あわや木曽川が血の海になるところだったのだぞ。貴様が勝手に他県へ軍勢を走らせてみろ。岐阜の空を愛知のヘリが飛び交い、岐阜の山河を愛知の装甲車が駆け抜けたら、美濃の民と兵はどう思う? 『愛知が裏切って攻め込んできた』と錯覚し、即座に背後から撃ち落とすに決まっておろうが」
「それは……」
「現代の軍勢はな、火縄銃の時代とは桁が違うのだ」
道三は冷徹に言い放った。
「一発の砲弾、一筋の電波が、何十里もの彼方まで届いてしまう。隣国同士が互いの軍事行動を隅々まで把握し、事前に納得していなければ、事故ひとつで同盟など木っ端微塵に吹き飛ぶのだ」
ぐうの音も出ない正論だった。
だが、それでも長年培った武将としての本能が、信長に首を縦に振ることを拒ませていた。
ここで軍のフリーハンドを手放せば、天下布武への道が果てしなく遠のくのではないか――その焦燥が、信長の胸を締め付ける。
「……信長公」
沈黙の中、後ろに控えていた藤堂直人が静かに進み出た。
「トウドウか。貴様まで、わしの手足を縛る軍事協議に賛同するというのか」
信長が苛立ちを隠さずに睨みつけると、藤堂は自衛官らしい厳格な表情を崩さぬまま、深々と頭を下げた。
「賛同いたします。恐れながら信長公、道三公の仰る通り、現代戦における『統合作戦協議』は、手足を縛る足枷ではなく、味方の同士討ちを防ぐための絶対的な命綱です」
「同士討ち……?」
「はい」
藤堂は手元のバインダーを開き、淡々と説明した。
「岐阜県には、航空自衛隊岐阜基地の防空監視レーダーや、最新鋭の地対空誘導弾が配備されています。もし我々愛知側の部隊が、事前通告なしに航空機を飛ばしたり、越境して部隊を展開させたりすれば、岐阜の防空システムはそれを自動的に『領空侵犯・敵対行動』と識別します。電波とコンピュータで動く現代兵器は、現場の兵士が『味方だ』と叫んでも止まりません。レーダーに捉えられた瞬間、数秒でミサイルが飛来し、愛知の航空機は撃墜されます」
「……」
「さらに、兵站の問題があります」
藤堂の言葉に、今度は澪が端末の画面を信長に向けながら追従した。
「愛知が他県へ軍を動かす場合、その補給ルートは必ず岐阜か三重、あるいは静岡の県境を通過します。事前協議なしに燃料タンクローリーや弾薬輸送車を走らせれば、通過先の県から通行を差し止められ、前線の部隊は一日で補給を断たれて孤立します。……軍事行動の事前協議とは、他県に許可を請うことではなく、補給線と安全回廊を確実に確保するための『段取り』なのです」
二人の補佐官の論理的な指摘に、信長は息を呑んだ。
またしても、己の知る戦国の常識が粉々に打ち砕かれた。
かつては、抜け駆けや奇襲こそが武士の華であり、敵の裏をかくことが至高の戦術であった。
だが、令和の世における軍事力とは、レーダーという巨大な見えざる眼と、張り巡らされた兵站の網の目によって雁字搦めに結ばれている。同盟国にすら情報を隠して動けば、敵に出会う前に味方のシステムに撃ち落とされ、補給が切れて野垂れ死ぬのだ。
(……なるほどな)
信長は奥歯を噛み締めた。
(軍を縛るためではない。軍を生かすための、令和の作法というわけか)
信長は深く息を吐き出し、乱れた息を整えて道三を見据えた。
「……分かった。第三条、軍事行動の事前協議、原則としてこれを受け入れよう」
「ほう?」
道三が意外そうに眉を上げた。もっと激しく抵抗するかと思っていたのだろう。
だが、信長はただ頭を下げたわけではなかった。
獲物を狙う鷹のような鋭い眼光を爛々と輝かせ、道三の鼻先に向けて太い人差し指を突きつけた。
「――ただしだ、義父上。この信長が、無条件で全軍の手綱を渡すと思うたか!」
「何だと?」
「例外を一つ、設けさせてもらう」
信長は胸を張り、上洛殿に響き渡る声で言い放った。
「他県からの『急迫不正の武力侵攻』――すなわち、外敵が愛知の領内へ刃を向けて攻め寄せてきた場合の緊急防衛行動においては、事前協議を待たずに即時反撃を行う権利を留保する! 自国の民が斬り殺されかけておる時に、美濃の判子を待ってはおれんからな!」
一歩も引かぬ、主権国家としての自衛の覚悟。
道三の細い目が、スッと見開かれた。
信長は、ただ古い我を通そうとしているのではない。現代の軍事合理性を受け入れつつ、国家の統治者として絶対に譲ってはならぬ「民を守る最後の防壁」を、寸分の狂いもなく切り取って見せたのだ。
「……くく」
道三の喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
「あはははは! 言うようになったな、信長!」
道三は机を叩いて大笑した。
「よかろう! 我が領土を守るための自衛行動まで縛る気はないわ。その例外条項、呑んでやる!」
道三は懐から万年筆を取り出し、和紙の末尾に自ら滑らかな文字で『緊急防衛の例外』を書き足すと、ためらいなく己の署名を刻み込んだ。
「これで三条件は揃った。……長谷川、協定書の清書を作れ。双方が署名すれば、愛知と岐阜の『濃尾相互防衛・経済協力協定』の成立だ!」
「ははっ!」
長谷川が感激に声を震わせて頭を下げた。
愛知側の水野志保も、胸の前で手を組み、ほっと胸を撫で下ろした。
北方橋の死線を越え、ついに愛知と岐阜という中部を代表する二つの工業・農業国が、対等の同盟を結ぶ。血を流すことなく、互いの強みを持ち寄って生き延びるための道が、いま開かれようとしていた。
信長もまた、口元に不敵な笑みを浮かべ、上座の座布団に深く腰を落ち着けた。
「ふ……。マムシを相手の外交戦、なかなかに骨が折れたぞ。だがこれで、北の憂いは消えた。各務原の翼と、豊田の車が手を組めば、もはや天下布武の第一歩を踏み出したも同然よ」
和やかな空気が広間に満ち、藤堂も安堵の笑みを浮かべていた。
――しかし。
「――っ!?」
広間の片隅で、協定書の付属文書――「品目別相互供給計画表」の数値を最終確認していた井川澪が、息を呑んで硬直した。
タブレットの光に照らされた澪の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
眼鏡の奥の切れ長の瞳が、画面に表示された数字の羅列を凝視し、激しく揺れ動いていた。
「……そんな……嘘でしょう……? どうして……」
澪の指先が、ガタガタと震え出した。
いつも感情を押し殺し、氷のように冷徹な「数字の澪」が、まるで世界の終わりを目撃したかのように取り乱している。
その異変に、最初に気づいたのは信長だった。
「……澪? どうした。何を青ざめておる」
信長の問いかけに、澪は答えられなかった。
喉がカラカラに渇き、声が出ない。画面を何度もリフレッシュし、計算式を打ち直すが、そこに弾き出される冷酷な解は一ミリたりとも動かなかった。
「おい、澪! 返答せよ!」
信長が不審に眉をひそめ、声を張り上げた。
道三も、長谷川も、藤堂も、ただならぬ気配を察して澪を凝視する。
澪はゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、絶望と恐怖の色が濃く滲んでいた。
「……殿……」
澪の口から、掠れた悲鳴のような声が零れ落ちた。
「協定の締結を……今すぐ、中止してください……!」
「何だと!?」
信長が立ち上がった。道三の表情が一瞬で険しいマムシの貌へと戻る。
「澪! 何を言い出すのだ! せっかく条件がまとまり、調印というこの時に!」
「駄目です……結べません!」
澪は胸を押さえ、震える手でタブレットの画面を信長と道三の前に叩きつけるようにして差し出した。
「愛知県が算出した……物資と燃料の将来予測モデルに、とんでもない『致命的な計算ミス』が見つかりました……!」
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