EP 12
天下人、最初の失敗を認める
「計算ミスだと……? どういうことだ、澪!」
信長の怒声が、金箔に彩られた上洛殿を激しく揺るがした。
立ち上がり、拳を机に叩きつける信長。対面に座る斎藤道三は、細めた瞳の奥に怜悧な光を宿し、一切の言葉を発することなく信長と澪の様子を注視していた。
井川澪は蒼白な顔のまま、震える指先で眼鏡を押し上げ、手元のタブレット端末を信長と道三の前に滑らせた。
「先ほど提示した供給計画表……愛知県が岐阜県へ優先供給すると約束した、特殊鋼、炭素繊維複合材、および電子制御部品の数量についてです。……この試算の基礎データに、二重計上の致命的な誤謬が含まれていました」
「二重計上……?」
信長が眉根を寄せると、澪は掠れそうな声を必死に絞り出した。
「ええ。豊田市の自動車工場を『部品の再生・補修ライン』へと組み替えた際、愛知自身のトラックや救急車を延命させるために必要な金属素材と樹脂の消費量を、別枠で計上してしまっていたのです。本来なら同じ備蓄倉庫のパイを取り合わなければならないのに、県庁の在庫台帳と民間企業の備蓄台帳を別々に合算したため、机上の数字が実態の倍近くに膨れ上がっていました」
「な……」
「さらに、各港湾コンビナートの自家発電用燃料の減衰曲線です」
澪の指が画面をスクロールする。表示されたグラフは、なだらかな右肩下がりではなく、数週間後に崖から落ちるように垂直降下していた。
「他県からの送電が途絶したことで、コンビナート自体の維持に消費される重油のペースが平時の三倍に達しています。このまま岐阜の各務原へ約束通りの資材と燃料を送り届ければ――向こう二十日と持たずに、愛知県内の火力発電所と救急車両が完全に燃料枯渇を起こします」
「二十日だと!?」
信長は絶句した。
協定書には、岐阜の各務原が持つ航空機製造・改修能力と引き換えに、愛知が誇る工業素材と部品を継続的に供給すると明記されている。しかしその約束は、愛知自身の社会インフラをわずか三週間で餓死させるという、破滅の時限爆弾の上に成り立っていたのだ。
「馬鹿な……! 我が尾張は日ノ本一の大工業国ではないのか! 倉庫に唸るほどの物資があると言ったのは貴様であろうが!」
「在庫はあります! しかしそれは『愛知が自国の社会機能を維持するだけ』で限界の量だったのです! 他県へ安定して分け与えられるほどの余剰など、最初から存在しなかった……私の確認不足です……!」
澪が深く頭を垂れ、その肩が激しく震えた。
常に冷徹に数字を操り、信長の無茶な命令を正論で論破してきた「数字の澪」が、己の弾いた計算の誤りによって完全に打ちのめされていた。
広間を凍りつくような沈黙が支配した。
岐阜側の特命秘書・長谷川が、眉間に深い皺を寄せて身を乗り出しかける。
「信長公……これは一体、どういうことですかな。我が主・道三公の三条件を呑むと見せかけて、最初から履行できぬ空手形を掴ませるおつもりだったのか」
「滅相もない!」
信長は反射的に怒鳴り返した。
だが、その心の内には、猛烈な動揺と屈辱の炎が渦巻いていた。
(……ええい、何という不覚だ!)
美濃のマムシを相手に、ようやく対等の同盟を結ぶところまで漕ぎ着けたのだ。相手の条件を呑み、天下人の度量を見せつけ、これから尾張と美濃が手を取り合って天下布武の第一歩を踏み出す――そのまさに調印の瞬間に、自らの足元がガラガラと崩れ落ちたのだ。
ここで「約束した物資は出せぬ」などと言えばどうなるか。
道三は即座に席を立ち、岐阜へ戻るだろう。県境は再び強固に閉ざされ、愛知は「大見得を切った挙句に嘘をついたペテン師の国」として、永遠に北の信頼を失う。
(……隠すか?)
信長の脳裏に、黒い誘惑がよぎった。
戦国乱世、同盟を結ぶ際に自軍の兵糧不足や内情の綻びを隠し通すことなど日常茶飯事だった。実態がどうであれ、今は調印を済ませて岐阜の関所を開かせ、各務原の航空技術を手に入れてしまえばよい。物資の不足など、後から「工場の都合で遅延した」とでも言い訳し、小出しに誤魔化しながら辻褄を合わせればよいのではないか。
「……澪」
信長は低く、押し殺した声で命じた。
「その板を伏せよ」
「え……?」
「数字の狂いなど、後から幾らでも繕える。豊田の職人どもに昼夜兼行で鉄を叩かせ、民の消費をさらに締め上げれば、岐阜へ送る分くらいはどうにでも工面できよう。……今は調印が先だ。我が織田家の面目を潰すような真似は許さん」
覇王の意地。
信長は道三に向き直り、何事もなかったかのように口角を吊り上げようとした。
――だが。
「――お待ちください、信長公!」
鋭く凛とした声が、信長の言葉を真っ向から遮った。
水野志保だった。橙色の防災服の襟元を正し、信長の前に膝を進めて立ちはだかる。
「志保! 貴様までわしの邪魔をする気か!」
「邪魔ではありません、諫言です!」
志保は信長の眼光から目を逸らさず、必死の形相で訴えかけた。
「履行できないと分かっている条約に判を押すなんて、絶対に駄目です! そんな嘘で結んだ同盟は、破綻した瞬間に倍の憎しみとなって跳ね返ってきます! 約束を守れなかった時、岐阜の人たちは『愛知に騙された、裏切られた』と絶望するんですよ! それは将来、必ず木曽川を挟んだ血みどろの戦争の火種になります!」
「黙れ! 今ここで破談になれば、美濃の関所は閉ざされたままだぞ! 愛知の孤立はどうなる!」
「孤立よりも、信頼を失うことの方が遥かに恐ろしいです!」
志保は涙を滲ませながら叫んだ。
「信長公! あなたは先ほど、一宮の病院で民の命を救い、心からの感謝を受け取られたはずです! あの笑顔を、美濃の民に対しても裏切るおつもりですか! 最初から嘘をついて手に入れた天下に、一体何の価値があるというのですか!」
「志保の言う通りです、信長公」
重厚な声が重なった。陸上自衛隊の藤堂直人だった。
藤堂は立ち上がり、軍人らしい寸分の隙もない直立不動の姿勢で、信長に深く頭を下げた。
「軍事の要諦は、何よりも『正確な補給』にあります。弾薬が届くと言って届かず、燃料が来ると言って来なければ、前線の部隊は全滅します。偽りの数字で結ばれた防衛協定など、有事の際に味方を背後から撃つに等しい背信行為です。……兵站の破綻を隠して結ぶ同盟など、我々自衛隊は断じて認められません」
「トウドウ……貴様まで……!」
信長は拳を握りしめ、ギリ、と奥歯を噛み締めた。
産業の澪。内政の志保。軍事の藤堂。
己が信頼し、令和の世を共に歩むと決めた三人の補佐官が、揃って信長の「面目」に立ちふさがっていた。
――嘘の上に結んだ同盟は、将来の戦争の火種になる。
――兵站の破綻を隠すのは、味方を背後から撃つに等しい。
脳裏をよぎったのは、かつて戦国乱世で繰り広げられた、幾多の裏切りと謀叛の記憶だった。
浅井長政、松永久秀、荒木村重、そして明智光秀。
己の力と恐怖でねじ伏せ、都合のよい約束で縛りつけようとした者たちが、最後にはことごとく刃を返してきた。あの本能寺の業火は、他ならぬ己の傲慢と独善が生み出した結末ではなかったのか。
この令和の世に蘇ってまで、また同じ過ちを繰り返すというのか。
数字をごまかし、面子を取り繕い、民と友を欺いて手に入れる天下など――。
(……何が天下布武だ)
信長の胸に、冷水を浴びせられたような痛烈な恥じらいが広がった。
天下を獲る器とは、過ちを犯さぬことではない。
過ちを犯した時、それを直視し、背負う覚悟を持つことではなかったか。
信長は目を閉じ、深く、長く息を吸い込んだ。
肺腑を満たす秋の夜気。
ゆっくりと目を開けた時、その瞳から迷いと焦燥は完全に消え去っていた。
信長は机の上の協定書から手を離し、両膝に拳を置いた。
そして――正面に座る斎藤道三を見据え、背筋を正したまま、深々と頭を下げた。
「……っ!?」
長谷川が目を見張り、澪と志保が息を呑んだ。
あの傲岸不遜を絵に描いたような覇王・織田信長が、自ら頭を垂れているのだ。
「……義父上」
信長の低く、静かな声が上洛殿に染み渡った。
「我が方の勘定に、致命的な誤りがあった。……先ほど提示した供給計画は、我が国の補佐官の過失ではなく、現代の数字をろくに理解もせず、大工房の力に浮かれておったこの信長の浅慮が生み出した幻に過ぎぬ」
「との……」
澪が胸を押さえて呟く。信長は澪の失策を責めることなく、すべてを自らの責任として引き受けていた。
信長は顔を上げ、道三の毒蛇のような瞳を真正面から受け止めた。
「約束した資材と燃料の半分も、今の愛知には出せん。約束通りの品を渡せば、我が尾張の民が干からびる。……ゆえに、この協定書に判を押すことはできぬ。約束を違えたこの信長を、無能と笑わば笑え。同盟を破棄し、関所を永久に閉ざすというなら、甘んじて受け入れよう」
堂々たる敗北の宣言。
己の非を寸分の言い訳もなく認め、相手の裁断にすべてを委ねる。そこには戦国武将の虚飾も、大国の驕りもなかった。
上洛殿が静まり返る。
長谷川が唾を飲み込み、主君の顔色を窺った。
道三は微動だにせず、ただ信長の顔をじっと見つめていた。
一秒、二秒、三秒――。
永遠にも思える静寂の後、道三の深く刻まれた眉間の皺が、ふっと緩んだ。
「……く」
道三の喉の奥から、乾いた音が漏れた。
「くく……ひ、ひひひ……あーっはっはっは!」
突如として、道三は膝を打って天を仰ぎ、腹の底から哄笑した。
「道三公……!?」
狼狽する長谷川を余所に、道三は涙が出るほど笑い転げ、やがて着物の袖で目元を拭った。
「痛快よ! まことに痛快ではないか、信長!」
道三は身を乗り出し、爛々と輝く目で信長を指差した。
「昔の貴様ならどうだった? 家臣が算盤を弾き違えれば手討ちにし、意地を張って嘘の約定を結び、後で破綻して美濃に攻め込まれ、共倒れになっておったところだぞ!」
「……義父上」
「だが、今の貴様はどうだ。腹心の諫言を聞き入れ、己の過ちを認め、面目を捨てて頭を下げおった。……信長、貴様は本当に、あの尾張のうつけか? いつの間に、それほど骨太な天下人の器になりおったのだ」
道三の言葉には、嘲笑の欠片もなかった。
あるのは、己の愛娘を嫁がせ、かつて美濃一国を譲ろうとまで思い詰めた男の成長に対する、心底からの賞賛と歓喜だった。
道三は和紙の協定書を引き寄せると、躊躇なくビリビリと真っ二つに引き裂いた。
「なっ……!?」
志保が息を呑む。
しかし道三は、引き裂いた紙屑を脇に放り投げ、ニヤリと唇を吊り上げた。
「机の上の嘘の数字など、何の役にも立たんわ。……おい、長谷川!」
「は、はっ!」
「美濃の現場から、各務原の航空工場の技師長と、大垣の物資調達責任者、それに岐阜基地の補給将校を今すぐ名古屋へ呼び寄せろ」
「へ……? 呼び寄せる、と仰いますと……」
長谷川が呆気にとられると、道三は信長を指差して言い放った。
「決まっておろうが! 大名同士が偉そうに数字を捏造したところで、現場のネジ一本増えはせんのだ! ならば、愛知と岐阜の職人ども、算盤弾きどもを一堂に集め、互いの倉庫の台帳を突き合わせさせればよいではないか!」
「職人と……算盤弾きを……」
信長が目を見張った。
「そうだ」
道三は腕を組み、不敵に笑った。
「岐阜が今、本当に喉から手が出るほど欲しいものは何だ? 愛知が今、死んでも手放せぬものは何だ? 現場の人間同士に腹を割って議論させ、互いに血を流さずに分け合える『真実の数字』を弾き出させるのだ。……信長、貴様が己の非を認めたのだ。このマムシが、その誠意に泥を塗るような狭量な真似をすると思うたか!」
「義父上……!」
信長の胸に、熱いものが込み上げた。
過ちを認めたことで、同盟は破綻するどころか――欺瞞のない、真の結束へと昇華したのだ。
澪が眼鏡を外し、溢れ出る涙を指先で拭った。志保が胸を撫で下ろし、藤堂が力強く頷く。
「澪」
信長が振り返った。
「……はい、殿」
「泣いている暇はないぞ。我が兵糧奉行」
信長は獰猛な笑みを浮かべ、澪の肩を力強く叩いた。
「美濃の算盤弾きどもがやってくるぞ。今度こそ、一分の狂いもない本物の帳簿を突きつけてやれ! 尾張と美濃の職人の知恵を合わせ、この令和の乱世を生き抜く盤石の架け橋を架けてみせよ!」
「……はいっ! 命に代えても!」
澪の瞳に、再び鋭く澄み切った光が宿った。
夜明けの光が、名古屋城の白壁を黄金色に染め上げていく。
愛知県庁の大会議室には、岐阜から緊急招集された航空技術者や行政官、自衛隊の補給担当官たちが次々と到着し始めていた。
愛知のトヨタや重工業の技術者たちと、岐阜の各務原の職人たちが、机の上に広大な図面と在庫リストを広げ、膝を突き合わせて議論を始める。
武力でもなく、偽りの外交でもない。
現代の産業と技術を繋ぐ、泥臭くも確かな「共同検証作業」の幕が、いま切って落とされようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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