EP 13
岐阜と愛知、二つの工業国が繋がる
夜明けの光が、愛知県庁の大会議室に差し込んでいた。
部屋の中は、すさまじい熱気と怒号に近い議論の声で満ちていた。長テーブルがロの字型に並べられ、その上には広大な地図、工場の工作機械配置図、そして数十冊に及ぶ分厚い部品在庫台帳が所狭しと広げられている。
「ふざけるな! 各務原の航空機用超精密マシニングセンタを、民間のトラックの部品削り出しに回せだと!? 航空自衛隊の機体を改修するための神聖な工作機械だぞ!」
声を荒らげたのは、岐阜県側から緊急招集された航空宇宙関連企業の初老の技術者だった。胸には川崎重工のロゴが入った作業着を着ている。
対する愛知側――豊田市の自動車部品メーカーから駆けつけた熟練の旋盤工長が、油の染みた作業帽を机に叩きつけて言い返した。
「神聖もヘチマもあるか! そのトラックが止まったら、お前らの岐阜へ運ぶ米も重油も木曽川の手前で立ち往生するんだよ! こっちは新車の量産を全部止めて、救急車と物流トラックの延命に命を張ってんだ! 岐阜の技術が天下一品だと言うなら、このディーゼルエンジンの超精密噴射ノズルを、公差一ミクロン以内で削り出してみせろってんだ!」
「な……一ミクロンだと!? うちの五軸放電加工機を舐めるなよ! そんなもの、うちの職人なら飯食いながらでも仕上げてやるわ!」
「だったら機械の空き時間を寄こせ! こっちからは熱処理済みの特殊鋼インゴットと、航空機用の耐熱ゴムパッキンを回してやる!」
喧嘩腰の罵り合い。だが、その手元ではペンが走り、電卓が弾かれ、互いの工場の保有設備と資材の過不足が猛烈な速度で突き合わされていた。
部屋の隅、一段高くなった席から腕を組み、信長はその光景をじっと見つめていた。
「……すさまじい気迫だな。職人どもが今にも殴り合いを始めそうだぞ」
信長が呟くと、隣で湯呑みを傾けていた斎藤道三が、くくくと喉を鳴らして笑った。
「殴り合いなどするものか。あれは職人どもの愛撫よ。互いの腕前を値踏みし、相手の急所と己の強みを噛み合わせようと必死になっておるのだ。大名同士が机の上で引いた嘘の線などより、よほど血の通った交渉ではないか」
「うむ……」
信長は感嘆を禁じ得なかった。
会議の中心では、産業政策補佐官の井川澪が陣頭指揮を執っていた。目の下に隈を作りながらも、眼鏡の奥の瞳は冴え冴えと光り、巨大なホワイトボードに両県の物資需給バランスを書き殴っていく。
「感情論はそこまでです!」
澪の凛とした声が大会議室に響き渡った。
「岐阜側が提示した航空機整備用の特殊アルミ合金と炭素繊維複合材、愛知の港湾備蓄から『月間十二トン』を岐阜の各務原工場へ優先枠として確保します! その代わり、岐阜県側は各務原の精密放電加工ラインの二割を、愛知の緊急車両用燃料噴射ポンプの代替部品製造に割り振ってください!」
澪の指が、ボード上の数字を囲む。
「これで、愛知と岐阜の主要幹線道路を走るトラック三千台の足回りが半年間延命できます! 異論はありますか!」
愛知と岐阜の技術者たちが顔を見合わせ、やがて同時に唸り声を上げて頷いた。
「……文句ねえよ。やってやる」
「うちの工場の加工枠、週に二日空けるぞ。素材を遅れずに寄こせよ!」
さらにその横では、内政補佐官の水野志保が、岐阜県庁の保健福祉部参事と膝を突き合わせていた。
「志保さん、大垣市民病院の透析液と、各務原の小児救急用の酸素ボンベですが……」
「愛知側の化学薬品メーカーから、本日正午の便で各務原へ三十ケース、大垣へ五十ケースを直送します! その代わり、岐阜側のJA(農協)にお願いがあります! 愛知県北部の都市部へ、県境付近で収穫された新米と根菜類を、一日十トン融通していただけませんか! 名古屋のスーパーの棚が空っぽなんです!」
「分かりました! 美濃の農家に即座に号令をかけます! 命を救う薬をもらっておいて、米の一俵も出せないなんて言わせません!」
そして会議室の奥では、自衛隊の藤堂直人と、航空自衛隊岐阜基地の補給幹部、愛知県警の警備部長が、無線機と地図を囲んでいた。
「国道二十二号・北方橋、および名神高速の一宮・大垣区間に、本日付で『濃尾共同兵站レーン』を設定する」
藤堂の太い声が下知を飛ばす。
「愛知・岐阜双方の自衛隊車両、および事前登録された緊急支援トラックは、検問フリーで通過可能とする。岐阜基地の防空監視レーダーは愛知上空のヘリ運行状況をリアルタイムで共有し、愛知の陸自整備小隊は岐阜の軽装甲機動車の部品改修を支援する。……双方の治安維持に、一切の隙を作ってはならん!」
「了解! 岐阜基地補給群、直ちに協定ラインの展開に入ります!」
目を見張るような光景だった。
高額な最新兵器の新造でも、派手な大軍の編成でもない。
いま動いているのは、壊れかけた救急車の車輪を直すためのネジであり、病院の子供を生かすための酸素であり、民の胃袋を満たす米袋であった。
それらが、互いの国境という見えない壁を越え、精緻な歯車のように噛み合っていく。
「……信長」
道三が煙管を揺らしながら、静かに信長を呼んだ。
「これが、令和の『合戦』よ。兵士の首を幾つ刎ねたかではない。己の国の民と、隣国の民を、どれだけ飢えさせずに動かし続けたか。その算盤の戦いに勝った者こそが、真の覇王となるのだ」
「……うむ」
信長は深く息を吸い込み、立ち上がった。
胸の奥で、かつてないほど熱い誇りが湧き上がっていた。
力でねじ伏せて奪い取った領地ではない。互いの非を認め、互いの必要性を認め合い、職人と民の知恵を結集して結ばれた、鉄よりも固い同盟の絆がそこにあった。
信長は机の前に歩み寄り、完成したばかりの新たな協定書――『濃尾相互物資供給ならびに産業保全協定』を見下ろした。
そこには、誇張も虚飾もない、愛知と岐阜の職人たちが命を削って弾き出した「真実の数字」が刻まれていた。
信長は万年筆を手に取り、迷いのない筆致で己の名を署名した。
道三もまた、細い目を細めて満足そうに笑い、その隣に自らの花押と署名を刻み込んだ。
「協定、成立だ!」
信長が大音声で告げると、大会議室にいた何十人もの技術者、官僚、自衛官たちが、一斉に歓声を上げて拍手を鳴り響かせた。
その日の午後。
信長と道三は、愛知と岐阜の境を流れる木曽川――国道二十二号・北方橋の袂に立っていた。
数時間前まで、双方の装甲車が銃口を向け合い、一触即発の殺気が渦巻いていたあの橋である。
コンクリートのバリケードが重機によって左右へ撤去され、道が一本、真っ直ぐに対岸の岐阜へと開かれていた。
プァーーーーン!
高らかなクラクションの音とともに、愛知側の検問所から、大型トラックの車列がゆっくりと前進を始めた。
トラックの荷台には、「愛知県災害支援・医療物資」と書かれた横断幕が掲げられている。中には、岐阜の病院を救うための透析液や酸素ボンベ、バッテリーが満載されていた。
橋の中央で、愛知県警の機動隊員と、岐阜県警の警察官が互いに直立不動の敬礼を交わす。
トラックの運転手が窓から手を振ると、岐阜側の誘導員が笑顔で白旗を振って先導した。
そして対岸からは、岐阜ナンバーの大型保冷車が列を成して愛知側へと渡ってきた。荷台に積まれているのは、美濃の山河で育まれた新米、大根、白菜、そして各務原の町工場で徹夜で削り出された、愛知の緊急車両用の代替ベアリングだった。
「通った……! 道が繋がったぞ!」
道路の脇を取り囲んでいた両県の住民たちから、地鳴りのような歓声が沸き起こった。
「愛知のトラックだ! 薬が届いたぞ!」「岐阜からお米が来た! 野菜も入ってきたぞ!」
旗を振る子どもたち、涙を流して拍手を送る老人たち。
県境を塞がれ、寒空の下で飢えと恐怖に震えていた民の顔に、温かな光と希望が満ち溢れていく。
橋の欄干に手をもたせかけ、その光景を見つめる信長の隣に、井川澪が静かに歩み寄ってきた。
「……信長様」
「澪か。見たか、あの荷車の列を」
「ええ。美濃から届いた食材と部品により、一宮市および名古屋市北部の食料配給は向こう一ヶ月分の目処が立ちました。各務原の加工枠を使った補修部品の第一弾も、明日の朝には豊田の再生工場へ届きます」
「ふふ……。天下布武、か」
信長は己の掌を握りしめ、開いた。
「わしはかつて、兵を繰り出し、城を焼き、敵を屈服させることこそが天下布武だと信じて疑わなかった。だが、違うな」
信長は木曽川の豊かな水面を見つめ、静かに言葉を紡いだ。
「道を繋ぎ、車を走らせ、民を生かす。二つの国の職人と民が手を取り合い、互いに『生きていてよかった』と笑い合う……これもまた、天下の理を布くということなのだな」
「……はい」
澪は眼鏡の奥の目を微かに潤ませ、深く頷いた。
「武力で脅しても、人の心は繋がりません。必要なものを分かち合い、共に生き残るための制度を作ること。それこそが、この令和の世における真の力です」
道三が後ろから歩み寄り、信長の肩をドンと叩いた。
「どうだ、尾張の小僧。マムシの毒も、使いようによっては薬になるであろうが」
「減らず口を叩くな、義父上。貴様が美味い米を寄こさねば、いつでもその首を刎ねておるところだぞ」
二人の覇王が顔を見合わせ、声を揃えて豪快に笑い合った。
愛知と岐阜。
世界に誇る自動車王国と、空を統べる航空産業の集積地。
二つの工業国が、血を一滴も流すことなく、固い信頼と相互依存の絆によって結ばれた瞬間だった。
――だが。
平和の余韻に浸る時間は、そう長くは残されていなかった。
「殿! 信長公!」
橋の愛知側警備本部から、藤堂直人が息を切らして駆け寄ってきた。その端正な顔立ちには、新たな緊張の色が張り付いている。
「どうした、トウドウ。騒々しいぞ」
信長が振り返ると、藤堂は手にした軍用暗号端末を掲げ、声を潜めて告げた。
「南西の県境――伊勢湾岸自動車道、および国道一号の弥富検問所より緊急入電です!」
「弥富……? 西の境か」
「はい。愛知県の南西に隣接する――三重県より、公式の外交使節団が派遣されてまいりました!」
信長と道三の眉が、同時に跳ね上がった。
「三重だと……?」
「はい。三重県に君臨する君主――北畠具教公よりの特使であります」
藤堂の報告に、澪が息を呑んで端末を操作した。
「三重県……四日市を中心とする巨大な石油化学コンビナート、そして亀山や桑名に広がる半導体・電子部品の一大集積地です! 愛知と岐阜が手を結び、県境を開いたという報せを聞きつけて、即座に動いてきたんだわ……!」
信長の瞳の奥に、再び爛々とした野望の炎が燃え上がった。
北の美濃を制した覇王の前に、今度は伊勢湾の海の利と、現代産業に不可欠な化学の力を握る新たな隣国が姿を現そうとしていた。
「北畠具教殿か……! 伊勢の剣豪大名め、こちらの動きをじっと窺っておったか」
信長は黒革のマントを風に翻し、木曽川の彼方、南西の空を睨み据えた。
「面白い。愛知と岐阜の結びつきを見て、たまらず名乗りを上げてきたか。……迎えるぞ! 三重の使者に、我が織田信長の前に罷り通るよう伝えよ!」
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




