EP 8
斎藤道三の値踏み
名古屋城の一角にある迎賓館の和室。障子の向こうから差し込む朝の光が、磨き抜かれた白木の床に鋭い影を落としていた。
上座に腕を組んで座る織田信長の前に、一人の男が静かに正座していた。
年の頃は四十代半ば。仕立てのよいダークグレーのスーツを身に纏い、背筋を寸分の狂いもなく伸ばしている。男は岐阜県庁の総務調整部長にして、復活した斎藤道三から全権委任状を預かった特命秘書――長谷川と名乗った。
長谷川の左右には、二人の屈強な随員が控えているが、武器は帯びていない。身軽な出で立ちながら、その佇まいには「美濃のマムシ」の懐刀らしい、油断のない冷徹な光が宿っていた。
「……して、義父上からの密使とやら。尾張の土を踏んだ感想はどうだ」
信長が低く唸るような声で口を開いた。鋭い眼光が、長谷川の眉間を射抜くように注がれる。
「豊田の工房を見てきたばかりだ。我が尾張は今、日ノ本一の技を持つ職人どもを束ね、車を繕い、民の足を動かす体制を整えたところよ。マムシの関所破りなど、痛くも痒くもないぞ」
信長の尊大な先制攻撃に対し、長谷川は眉一つ動かさず、深々と一礼した。
「我が主・斎藤道三公より、言付けを預かっております。『尾張の小僧が、ただの破壊者ではなく、帳簿と職人の使い道を知る男に化けたこと、まずは慶賀に堪えぬ』と」
「ふん、減らず口を」
「ですが信長公」
長谷川は顔を上げ、手元に置かれた黒革のブリーフケースから、一通の分厚いファイルを滑り出させた。
「道三公はこうも仰せです。『車を繕うことと、空を飛ぶことは別物だ』と」
「何だと?」
「こちらをご覧ください」
信長の傍らに控えていた井川澪が手際よくファイルを受け取り、素早く目を通した。眼鏡の奥の切れ長の瞳が、微かに揺れる。
「……各務原の航空機関連産業における、残存設備の稼働協定案……ですか」
「いかにも」
長谷川が淡々と告げた。
「岐阜県各務原市には、川崎重工をはじめとする航空宇宙関連工場が集結しております。さらに航空自衛隊岐阜基地には、最新鋭の航空装備を開発・試験・改修するための国内唯一の設備と、高度な航空技術者集団が存在します。……信長公、愛知県は自動車の王国かもしれませんが、空を統べる翼を単独で維持する力はお持ちではないはずです」
「……続けよ」
信長が顎をしゃくった。
「岐阜が保有する航空機の整備・改修能力、ならびに超精密加工技術と、愛知県が持つ港湾設備、特殊鋼、電子部品、そして強大な自動車整備物流網を一つに結合する。愛知の資材を岐阜へ送り、岐阜の精密部品と航空整備能力を愛知へ提供する。……双方の強みを掛け合わせれば、濃尾平野に日本最強の『航空・陸上複合産業圏』を確立することができます」
長谷川の提案は、極めて理路整然としていた。
昨夜、澪が指摘した通り、愛知単独では航空機や高度な電子機器の維持にいずれ限界が来る。岐阜の各務原が持つ技術と設備が手に入れば、愛知の工業力は陸から空へと一気に広がり、戦国再臨の孤立状態を打ち破る強力な足がかりとなるのは明白だった。
信長は喉の奥で舌を打った。
(マムシめ……こちらの弱点を、寸分の狂いもなく見透かしておるわ)
だが、ここで相手の言い値に乗るような信長ではない。
信長は唇を歪め、傲岸不遜な笑みを浮かべて畳を拳で叩いた。
「面白い提案だ。義父上の知恵、確かに受け取ったぞ。……だが、話にならん部分が一つある」
「……と、仰いますと?」
長谷川が初めて怪訝そうに目を細めた。
信長は胸を張り、堂々と右手を突き出した。
「対等などあり得ぬ、ということだ。同盟を結ぶのはよい。だが、この中部の盟主は我が織田信長である。美濃の航空工房も自衛隊基地も、すべて我が織田家の差配下に置く。対外的な外交権、他県との交渉権、ならびに物資の最終配分権はすべて愛知が握る。岐阜は我が傘下に入り、命に従って翼を動かせ。これが、我が呑む唯一の条件だ」
静かな迎賓館の空気が、一瞬で凍りついた。
要するに、「岐阜の産業と軍事は愛知が支配する、道三はそれに従え」という露骨な従属要求だった。
信長にしてみれば、かつて美濃を攻め落とし、天下布武の拠点とした記憶がある。尾張七百四十万の国力と巨大な工業力を背景に、岐阜を自らの風下に置くのは当然の権利だと考えていたのだ。
だが――。
長谷川は恐怖に震えるどころか、冷ややかに口角を吊り上げた。
「……お断り申し上げます」
吐き捨てるような、明確な拒絶だった。
「何だと?」
信長の眉間に深い影が落ち、部屋の温度が数度下がったかのような凄まじい殺気が立ち込めた。
「我が命を拒むか。美濃一国など、愛知の兵力と物資をもってすれば、干殺しにすることなど容易いのだぞ」
「どうぞ、おやりになればよろしい」
長谷川はピクリとも怯まず、冷厳な声で言い放った。
「ただし、愛知の兵が県境を一歩でも越えた瞬間、岐阜の技術者たちはすべての工作機械の制御基板を破壊し、航空基地の燃料タンクを焼き払うでしょう。残るのは使い物にならない鉄屑の山だけです。信長公、道三公はあなた様の器量をこう予言しておられましたよ。『信長は確かに英傑だが、骨の髄まで古い戦国大名の傲慢さに憑りつかれている』と」
「貴様……!」
信長が腰の刀の柄に手を伸ばしかけた。
長谷川は動じることなく、信長を正面から見据えて舌鋒を研ぎ澄ませた。
「現代の岐阜県民四十万人の職人と自衛官は、あなた様の領民でもなければ、奴隷でもありません。高度な精密機械を動かすのは、恐怖や主従の上下関係ではなく、誇りと信頼です。他県の主権を踏みにじり、頭ごなしに命令を下せば国が動くと思い込んでいるなら、あなた様は天下人どころか、ただの小児に過ぎない!」
「無礼者ッ!」
信長の怒号が響き渡った。覇王の激昂。常人ならば失禁して平伏する威圧の前に、迎賓館が震えた。
「そこまでです、信長様!」
その怒気の間髪を容れず、横合いから鋭く割って入ったのは井川澪だった。
澪は信長と長谷川の間に立ちふさがり、タブレットを信長の鼻先へと突きつけた。
「澪! 邪魔をするな! この不届き者を――」
「長谷川さんの仰る通りです!」
澪の凛とした声が、信長の怒声を真正面から打ち砕いた。
「信長様、目を覚ましてください。他県の工場は、命令では絶対に動きません!」
「何だと……!?」
「現代のサプライチェーンとは、相互の契約と信頼関係によって成立しているのです」
澪は眼鏡を押し上げ、感情を排したビジネスの論理で信長を追い詰めた。
「岐阜の航空機産業を無理やり従属させ、愛知が外交権を独占するなどという不平等条約を結べばどうなりますか? 現場の技術者はサボタージュを起こし、部品の品質は劇的に低下します。ネジ一本の公差が百分の数ミリ狂っただけで、航空機は空中でバラバラになって墜落するのですよ! そんな信頼を失った製品で、誰が空を飛べるというのです!」
「澪の言う通りです、信長公」
今度は、自衛官の藤堂直人が進み出て、深々と頭を下げた。
「軍事の観点からも、岐阜基地の部隊を力で屈服させることは不可能です。岐阜の自衛隊員たちもまた、故郷の岐阜県と領主・斎藤道三公に対して強い帰属意識を持っています。力ずくで従わせようとすれば、県境での泥沼の衝突を招き、愛知の防衛体制そのものが崩壊します。……勝つことと、人を動かすことは違います」
「…………」
信長は柄を握る手を止め、呼吸を整えた。
頭の奥で、カッカと燃え盛っていた炎が、澪と藤堂の言葉によって急速に冷やされていくのを感じた。
――他県の工場は命令では動かぬ。
――ネジ一本の狂いで、空中で墜落する。
――勝つことと、人を動かすことは違う。
脳裏をよぎったのは、かつての上洛戦や、同盟者たちとの駆け引きだった。浅井長政を力で縛ろうとして背かれ、徳川家康とは対等の盟約を結ぶことで背後を固めた、あの乱世の記憶。
(……わしは、また同じ過ちを犯すところだったのか)
令和の世になり、七百万の人口と巨大な工業力を手に入れたことで、己の傲慢さが頭をもたげていた。相手の首根っこを押さえつけ、すべてを我が意のままに動かそうとする悪癖が、知らず知らずのうちに顔を出していたのだ。
信長はゆっくりと柄から手を離した。
ふう、と長く、熱い息を吐き出す。
「……長谷川」
「はっ」
「……失言であったな」
信長の口から出た意外な言葉に、長谷川が目を見張った。澪も、藤堂も、驚きを隠せずに信長を見つめる。
「わしはまだ、この令和の世の『理』を学び始めたばかりの身だ。七百万の力に溺れ、義父上を見くびっておったようだ」
信長は苦笑いを浮かべ、上座に座り直した。
その顔から、先ほどまでの凶暴な覇気は消え失せ、冷徹で合理的な指導者の光が宿っていた。
「先ほどの傲慢な要求は取り消す。……マムシに伝えよ。愛知と岐阜は、対等な立場で『相互利益』を軸とした同盟を結ぶ、とな」
「信長公……」
長谷川の表情が、目に見えて和らいだ。
「では、改めて条件を提示していただけますか」
「うむ」
信長は澪を手招きした。澪が素早くタブレットを操作し、新たな草案を長谷川の前に差し出す。
「第一に、愛知と岐阜の主権および行政の自治権は、互いに完全に尊重する。他県への外交方針は、両国が事前協議を行い、合意の上で決定する」
「……結構です。道三公も望まれるところです」
「第二に、愛知からは名古屋港に備蓄されている特殊軽合金、炭素鋼、および電子制御部品を、各務原の航空工場へ優先供給する。その代わり、岐阜からは航空機の点検整備枠を愛知の自衛隊および消防・警察ヘリに優先配分し、さらに工作機械用の超精密切削部品を愛知の補修工場へ供給せよ」
「相互の産業と生活を守るための、完全なギブ・アンド・テイク……まことに合理的です」
長谷川が深く頷いた。
「そして第三に――」
信長は身を乗り出し、長谷川の目を射すくめた。
「昨日、道三殿が非公式に求めてきた『大垣・各務原の病院への透析液およびバッテリーの緊急融通』だ。これを本日中に愛知から無償で送り届ける。……美濃の民を救え。義父上が民を飢えさせぬと言うなら、その背中をわしが押してやる」
「……! そこまで、ご配慮いただけるとは……」
長谷川の瞳に、心底からの感服の光が宿った。
力による威嚇を引っ込め、相手の最も喉から手が出るほど欲しいものを、惜しげもなく差し出す。この信長の切り替えの早さと豪胆さこそが、道三がかつて惚れ込んだ器量そのものだった。
「承知いたしました、信長公」
長谷川は平伏し、頭を畳に擦りつけた。
「この条件であれば、道三公も必ずや快諾されましょう。直ちに県境の封鎖を解き、両国の正式な同盟締結式へと――」
長谷川が言葉を結ぼうとした、まさにその時だった。
ガラガラガラッ!
迎賓館の障子が乱暴に引き倒され、通信機器を抱えた藤堂の副官が転がり込んできた。
「緊急事態です! 藤堂一佐、信長公!」
藤堂が跳ね起きるように振り返った。
「何事だ! 密談の最中だぞ!」
「県境です! 愛知と岐阜の境、木曽川にかかる国道二十二号・北方橋のバリケード付近で、重大な軍事的衝突の危機が発生いたしました!」
「何……!?」
信長が立ち上がった。長谷川も顔色を変えて立ち尽くす。
「双方の輸送部隊です!」
副官が息を乱しながら、スピーカーをオンにした無線機を差し出した。
『――こちら県境警備小隊! 岐阜県側の警察機動隊および自衛隊普通科部隊が、封鎖ゲート前で装甲車両を展開! 火器の安全装置を解除し、銃口をこちらに向けています!』
『岐阜側より通告! 愛知側の大型補給車列の前進を「侵略行為」と見なし、これ以上の接近を許せば発砲する、と!』
無線機の向こうから、風の音と怒号、そして装甲車のエンジン音が濁流のように漏れ聞こえてくる。
「馬鹿な!」
長谷川が叫んだ。
「道三公からは、威嚇射撃の許可など下りていないはずだ!」
「愛知側からも進軍命令など出しておらんぞ!」
信長が怒鳴った。
通信の不通、双方の極度の猜疑心、そして現場の指揮官たちの張り詰めた神経が、最悪の形で暴発しかけていた。
一発でも銃弾が放たれれば、今結ばれようとしていた同盟は灰燼に帰し、愛知と岐阜は全面戦争へと叩き落とされる。
「県境で……戦車を動かすな!」
信長は叫び、床を蹴って駆け出した。
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