EP 5
殿、工場を動かす前に救急車を動かしてください
斎藤道三からの挑戦状とも取れる親書が届いた直後、愛知県庁の正庁講堂は、熱気と緊張が入り混じる作戦本部の様相を呈していた。
「美濃の急所を突くぞ。澪、岐阜が喉から手が出るほど欲しがっておる資材の目録はまだか」
信長が腕組みをし、大スクリーンの前に仁王立ちして命じた。
だが、その信長の覇気を遮るように、バン、と講堂の側扉が激しく開け放たれた。
「殿! 工場や戦車の話をしている場合ではありません!」
飛び込んできたのは、肩で荒い息をつく水野志保だった。橙色の防災服は乱れ、手帳とタブレットを抱えた両手はかすかに震えている。
「志保か。騒々しいぞ。いま道三への返礼を考えておるところだ」
「返礼どころじゃありません! 尾張北部、岐阜との県境に面した一宮市や江南市、犬山市の基幹病院から悲鳴が上がっています! 人工透析の薬剤、輸血用の血液パック、そして新生児や重症者用の酸素ボンベの備蓄が、今夜にも尽きかけています!」
志保は信長の眼前に走り寄り、息を呑んで訴えかけた。
「道三公の県境封鎖によって、国道や高速道路がトラックで完全に埋まりました。その大渋滞のせいで、愛知側の工場から各病院へ向かう医療物資の配送便が何時間も立ち往生しているんです! おまけに、現場の消防署からは『救急車を走らせるガソリンの割り当てがない』と泣きついてきています!」
「何……? 油がないだと? 先ほど、自衛隊の油を病院へ回せと命じたはずだぞ」
信長が眉をひそめて問うと、後ろに控えていた藤堂直人が苦悶に満ちた表情で一歩進み出た。
「信長公。先ほど供出したのは、名古屋市中心部の巨大病院へ向けた『自家発電用の重油』であります。救急車や小型トラックを動かすのはガソリンや軽油であり、燃料の性質が異なります。……それに、恐れながら申し上げます」
藤堂は拳を強く握りしめた。
「自衛隊春日井駐屯地や守山駐屯地のガソリン備蓄も、すでに極限状態です。これ以上、軍の備蓄燃料を民間に無制限で放出すれば、我々自衛隊は県境の警戒監視活動はおろか、有事の即応出動すら不可能になります。燃料タンクを空にした部隊は、敵の侵攻に対して何の抑止力にもなりません」
「軍の燃料を惜しむというのか、トウドウ!」
「惜しんでいるのではありません! 守るべき国防の最低限度を割り込むと言っているのです!」
軍事補佐官としての藤堂の義務感と、内政・命の現場を預かる志保の切迫感が真っ向から火花を散らした。
「国防の前に、目の前で民が死んだら何の意味があるんですか!」
志保が涙声で叫ぶ。
「今この瞬間も、県境の救急車は出動できず、呼吸器をつけた子どもや、透析を受けられない高齢者がカウントダウンを迎えているんです! お願いです、殿! 工場を動かす前に、まず救急車を動かしてください!」
講堂が水を打ったように静まり返った。
信長は志保の必死の形相をじっと見つめた。
戦国乱世において、領民とは年貢を納め、城を築き、戦となれば槍を持って駆り出される存在だった。合戦の最中に民が飢えようが病に倒れようが、それは乱世の業として片付けられてきた。
だが――この令和の世は違う。
民の生活が成り立って初めて、鉄の輿も、空飛ぶ鳥も、電気という見えざる雷も命を宿すのだ。民を損なえば、この巨大な工業国家は砂上の楼閣のごとく崩壊する。
「……澪」
信長は低く、静かな声で呼んだ。
「貴様の冷徹な頭で、この盤面をどう解く」
壁際で静かに画面を凝視していた井川澪が、眼鏡の奥の切れ長の瞳をスッと信長に向けた。
「感情論で燃料を注ぎ込んでも、破綻を数時間先延ばしにするだけです。……ですが、兵站の『運用の無駄』を極限まで削ぎ落とせば、解決の道はあります」
澪はタブレットを操作し、スクリーンに愛知県北部の道路網と、点在する病院、ガソリンスタンド、自衛隊駐屯地の位置を光る点で表示させた。
「藤堂さんの言う通り、自衛隊の燃料をただ民間に配るだけでは共倒れです。逆に志保さんの言う通り、救急車が止まれば治安と民心が崩壊します。ならば、やり方を変えましょう」
澪の指先が、地図上に一本の鮮やかな青い線を引いた。
「まず、民間車両の不要不急の通行を全域で即時禁止。県警察を使って、国道二十二号および主要幹線道路の『緊急医療専用レーン』を強制的に確保します。渋滞を物理的に排除するのです」
「ほう……道を一本、丸ごと空けるのか」
「はい。そして、各病院が個別に物資を買い付け、個別に救急車を走らせるのを即座に停止させます。民間の運送会社、自衛隊の補給部隊、消防の指令センターを即時統合。物資の輸送ルートを一本化する『共同巡回集約便(ミルクラン方式)』を敷きます」
澪は淀みなく数字を並べ立てた。
「小牧の自衛隊基地を北部兵站中継拠点に指定。春日井の燃料備蓄から、必要最小限の軽油を自衛隊の高機動車と大型トラックに給油します。その頑丈な軍用車両に、酸素ボンベ、透析液、輸血パックを一括して満載し、一本化したルートで各病院へ定時配送するのです」
「待て、澪。それでは自衛隊の車両を民間に使うことになるぞ」
藤堂が眉をひそめると、澪は鋭い視線を返した。
「無駄にパトロールでガソリンを撒き散らすより、自衛隊の走破性と統率力を使って命の回廊を維持する方が、よほど有効な防衛行動です。この運用により、従来の個別輸送に比べて県北部の燃料消費量を『三十八パーセント』削減できます。自衛隊の即応予備燃料に手をつけずとも、向こう四十八時間は医療機能を完全維持できます」
藤堂は息を呑み、示されたデータを見つめて沈黙した。
「……三十八パーセントの節約か」
「はい。藤堂さんの軍事的懸念と、志保さんの人道的要求。双方の制約を満たす解はこれしかありません」
澪は淡々と言い切り、信長を正面から見据えた。
「決断を、信長様」
信長は口元に微かな笑みを浮かべた。
「見事な采配だ、澪。数字とは、こうして使うものか」
信長は立ち上がり、黒革のマントを翻して号令を下した。
「トウドウ! 澪の描いた筋道に従い、自衛隊の輿と兵を直ちに動かせ! 道を塞ぐ愚か者がおれば、信長の名において叩き出せ!」
「はっ……了解いたしました!」
「志保! 病院の医師どもに伝えよ。織田信長が道を通した、安心して民を救え、とな!」
「はいっ……! 直ちに手配します!」
「そして――」
信長は出口へ向かって大股で歩き出した。
「殿? どちらへ?」
驚く志保に、信長は振り返りもせずに言い放った。
「決まっておろう。その北の病院へ参る。我が命で救われる民の顔を、この目で改めねば気が済まん」
愛知県一宮市にある尾張北部の中核総合病院。
信長を乗せた自衛隊の防弾仕様車両が、赤色灯を回すパトカーに先導され、病院の前庭へと滑り込んだ。
そこは、戦場の野戦病院を彷彿とさせる熱気と混乱に包まれていた。
「自衛隊の輸送隊が到着したぞ!」「酸素ボンベだ! ICUと小児科へ急げ!」「透析液を第三処置室へ!」
緑色の斑模様の軍服を着た自衛官たちが、大型トラックの荷台から次々と銀色のボンベや段ボール箱を運び出していく。警察官が交通を整理し、白衣を着た医師や看護師たちが汗だくになってそれを受け取っていた。
病院の正面玄関をくぐった信長は、鼻をつく消毒液の匂いと、行き交う人々の緊迫した空気に目を見張った。
壁の照明がふっと明るさを増し、機械の唸るような低音が館内に満ちていく。
「自家発電の燃料が繋がったぞ! 補助電源から本線に切り替わった!」
院内スピーカーから技術員の声が響き渡ると、フロアのあちこちから安堵の喚声が上がった。
「あ……あなた様は……」
処置室の前の廊下で、一人の初老の医師が立ち止まり、信長を凝視した。
信長の背後には、正装した藤堂直人と、防災服の水野志保が控えている。その異様な威圧感と佇まいに、通りかかった看護師や患者の家族たちが次々と足を止めた。
「織田……信長公、でいらっしゃいますか……?」
震える声で尋ねる医師に、信長は腕を組み、堂々と顎を引いた。
「いかにも。尾張の主、織田信長である。……息災か」
その瞬間、廊下にいた人々がざわりと揺れた。
処置室の扉が開き、車椅子を押した若い母親が出てきた。車椅子の上には、点滴と小さな酸素吸入器をつけた七、八歳ほどの少女が座っていた。少女の青白かった頬に、わずかに赤みが差している。
「助かった……助かったんだよ、美咲……」
母親が涙を流しながら床に崩れ落ち、信長に向かって両手を合わせ、額をリノリウムの床に擦りつけた。
「信長様……! ありがとうございます……! 酸素が届かなかったら、この子はもう駄目だと諦めかけていました……! 本当に、本当にありがとうございます……!」
「お殿様……ありがとう……」
少女がおぼつかない声で、信長を見上げて微笑んだ。
その光景に呼応するように、周囲の患者たち、点滴スタンドを握りしめた老人たち、白衣の看護師たちが、次々と膝を折り、信長に向かって頭を下げ始めた。
「信長公万歳……!」「愛知の殿様が、私たちを見捨てずにいてくれた……!」
感謝の言葉が、祈りのように信長を取り囲む。
「…………」
信長は言葉を失い、己の掌を見下ろした。
奇妙な感覚だった。
かつて戦国乱世において、敵の城を攻め落とし、降伏した城主や武士どもが平伏する姿は何百度と見てきた。だが、その時の敗者たちの瞳にあったのは、恐怖と憎悪、屈辱だけであった。
いま、信長の前に平伏している民の瞳にあるのは、純粋な安堵と、魂の底からの感謝だった。
胸の奥が、熱い湯を注がれたようにじんじりと痺れていく。
(……これが、民を救うということか)
敵を皆殺しにして手に入れた領地などより、こうして生かした民の笑顔を見る方が――なぜか、遥かに誇らしく、腹の底が満たされるような気がした。
「志保」
信長は静かに呟いた。
「……はい、殿」
「……礼を言うぞ。わしを、ただの愚かな人殺しに仕立て上げずに済んだのは、貴様の働きのおかげだ」
「えっ……」
思いがけない覇王からの労いに、志保は目を見張り、やがてくしゃりと顔を崩して頭を下げた。
「もったいないお言葉です、殿……」
信長は少女の前に歩み寄り、豪快に笑ってその小さな頭に大きな掌をポンと置いた。
「案ずるな、小娘! この尾張に生きる民は、誰一人として飢えさせも殺しもし連れていかせぬ! 安心して養生せよ!」
病院中に、割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。
その熱気が冷めやらぬ夕刻。
病院の屋上に上がった信長は、夕闇に染まる北の空――木曽川の向こうに連なる岐阜の山並みを睨み据えていた。
秋の冷気が、信長のマントを激しく揺らす。
「殿」
後ろから駆け上がってきた藤堂が、手にした暗号通信端末を掲げた。その表情には、明らかな動揺が浮かんでいた。
「どうした、トウドウ」
「岐阜県側から……先ほど、極秘のホットラインを通じて緊急通信が入りました」
「なに? マムシからか」
「はい。岐阜県知事官房の特命秘書を名乗る人物からです。岐阜県知事・斎藤道三公より、愛知県知事・織田信長公宛ての『非公式な要請』である、と」
「……要請だと?」
信長が目を細める。
藤堂は唾を飲み込み、画面に表示された通信文を読み上げた。
「『美濃国内においても、県境封鎖の反動により、大垣および各務原の病院群にて透析液および高度医療機器用バッテリーの枯渇危機が発生している。これらは愛知県内の化学工場および電子部品メーカーからの供給に依存していた品目である。……貴国に余剰があるならば、非公式に人道物資の融通を乞いたい』……と」
屋上に、しばしの沈黙が落ちた。
信長は夕闇の山々を見つめ、やがて喉の奥からクツクツと笑いを漏らした。
「……あっはははは! はーっはっはっは!」
腹を抱え、空を仰いで哄笑する信長の姿に、藤堂と志保が顔を見合わせる。
「マムシめ! 大見得を切って県境を塞いでおきながら、自分の城の民が干からびおったか! 自分で撒いた毒で、自分の腹を壊すとは……笑わせてくれるわ!」
信長は笑いを収めると、爛々と光る瞳を北の山へと向けた。
勝ち誇るような傲慢さではない。相手の急所を完全に握った、冷徹無比な天下人の笑みだった。
「道三殿。知恵を見せろと言うたな。……見せてやるぞ。貴様が土下座して門を開け放つような、最高の知恵をな」
読んでいただきありがとうございます。
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